★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

日ノ暮レ近ク

2011-06-14 21:20:18 | 文学

日ノ暮レチカク


翳ツテユク 陽ノイロ
シヅカニ オソロシク
トリツクスベモナク

原民喜の作品は、記念碑に刻むことはできない。ブログに書き記すことも躊躇われるほどである。ところでこういうニュース(どうやら美談としてであるらしいのだが……)がニュースサイトに載っていた。被災地のある場所で、被災した祖母を訪ねた小学生が詩を書いたところ、それが周りの大人たちによって役場にもちこまれた。ブログに載せたいとか、書にしたい、とかいう問い合わせあったりしたらしい。ある年配のアナウンサーはその詩の解釈を新聞記者にしゃべっている。正確なことなどニュースサイトに載っているはずはないけれども、仮にその記述を信じるとするとその解釈は明らかに間違っていた。政治家や小学校のある種の教員のような、正確でないことを言わなければならない職種ならぎりぎり許されるレベルの誤読だが、……と思ったがやっぱり駄目である。ちょっとの違いのように思われるけれども、文学の解釈としては許容範囲を超えていた。私は、その詩自体それほどよいものと思わないし、大学生がこういうものを仮に書いてきたなら、詩以前に精神において間違っていると叱りつけているところである。……のみならず、この点は措くとしても、マスコミも含めた周りの大人の行為は、その小学生だけでなく被災者をも蹂躙している。言葉に対するこの低レベルな状況がある限り、我々の社会は今後どうにもならないであろう。宮台氏がよくいう、良き共同体における個人の「入れ替え不可能性」が保たれるためには、言葉に対する感覚が改善されなければならないと思われる。入れ替え不可能性は、コミュニケーション能力(笑)という、相手の言葉を自分の通じるレベルに翻訳する能力ではなく、自分の言葉と他人の言葉が入れ替え不可能かもしれないということを自覚する、いわば、コミュニケーション不能力が必要である。

ただ、コミュニケーション以前に、人を脅しつけりゃいいとおもっている頭のおかしな連中も多いのであるが。