今日は、演習Ⅰの授業のあと──、その発表やレポートのあまりの酷さに発狂しかかっていたところ、昨年の卒業生Iさんがやってきたので、しばし歓談する。Iさんもなかなか苦労しているらしく、学生時代をやや懐かしがっていた。私は、大学入学以来、ほとんど大学の世界から脱出していないせいか、大学時代は懐かしくも何ともない。これは良いことかどうかわからない。
思うに、大学時代、面白そうな認識を本から得ることにあまりに集中しようとしていたためか、近代文学の研究会の仲間とも、ゼミの仲間とも、音楽仲間とも、くだらない話で楽しんだりすることをしていなかったような気がする。私は複数の集団に同時に所属しているのがよいことだと思ったから、音楽も文学もやめていなかったわけだが、それにしてもとても忙しすぎた。常駐している部室みたいなものがなかったのも良くなかった。私は賄い付きの共同下宿で大学生活を過ごした最後の世代だと思うけども、私は忙しすぎて共同下宿の仲間ともあまりしゃべることが出来なかった。とはいえ、となりの部屋の上級生からフーコーをかりるぐらいのことはあったが……。ともかくも、私には自分自身だけでやるべきことがありすぎた。
×川大の国語研究室の学生は、とても厳しい授業を学生が協力して乗り切らなければならない。しかも授業で、所謂「共同作業」とか「グループ発表」などより個人発表が多いから、個人個人がむき出しになりつつ、心理的な一体感が次第に生まれてくる。前にも書いたが、全員平等に発表で酷い思いをするからである。震災後の一体感の様なものだ。しかも、おしゃべりする部屋があるのがよいですね。廊下に漏れてくるギャハハ声を聞いていると、実にゴミ屑の様な話題で盛り上がっているようだが、ときどき太宰治や古今集の引用が混じっている。部屋を覗くとジャンクな食べ物の匂いでまさにゴミ屑であることが判明するのであるが、国歌大観や中華書局、戦時下の古本の匂いも混じっている。というのはよく言いすぎで、漢字の並んだ本の下に「君に届け」や「スティールボールラン」などが置いてあったりする。まさに、バフチンのいう「カーニバル」状態、いや、そうではなく、ただのゴミ溜めであるが、こういうところからしか面白いものは生まれない。Iさんはこういうものに懐かしさを覚えるのであろう。国語研究室の卒業生にはこういう学生が少なからずいる。外の世界は、よほど酷いことになっているであろうか(笑)まあ酷いわな、どう考えても。
だいたい、要領の良いスタイリッシュな個人がいくらカッコつけたとしても、だいたい大したことになっていないのは、この10年ぐらいではっきりしたのではあるまいか。一方、いま世間で称揚されている協働とか、コミュニティ再生とかゆー主張は、上の様なゴミ溜めを解体し、淋しい個人を翼賛にほいほい付いていくようにただ束ねようとしているだけである。だからこういう動きは、少人数のゴミ溜め的協働を嫌う。某大学ではないが、集会届けを要求する癖に、人とのつながりを称揚するというのは、一見矛盾しているようで、人を管理しようとする人間達にとっては極めて合理的なダブルバインド作戦(笑)である。
で、その必要であるところの良きゴミ溜めであるが、ただ集まって過ごすだけなら、まさに単にゴミ溜めである。ゴミに混じる文化の香りがなければ懐かしくもなんともない。やはり実力がなければその香りは生じない。ただ、学問によってはそんな感じにならないことも多いらしいのだ。もしかしたら、こういうのは文学や哲学に限った話ではないかとも思う。そこでは、個人が虚勢を張ったりカッコをつけたりできないからだ。文学や哲学がそれを禁じるからね。
追記)ゴミ箱に「萌えるゴミ」とか張り紙をするのは、お外の世界ではやらない様に。
思うに、大学時代、面白そうな認識を本から得ることにあまりに集中しようとしていたためか、近代文学の研究会の仲間とも、ゼミの仲間とも、音楽仲間とも、くだらない話で楽しんだりすることをしていなかったような気がする。私は複数の集団に同時に所属しているのがよいことだと思ったから、音楽も文学もやめていなかったわけだが、それにしてもとても忙しすぎた。常駐している部室みたいなものがなかったのも良くなかった。私は賄い付きの共同下宿で大学生活を過ごした最後の世代だと思うけども、私は忙しすぎて共同下宿の仲間ともあまりしゃべることが出来なかった。とはいえ、となりの部屋の上級生からフーコーをかりるぐらいのことはあったが……。ともかくも、私には自分自身だけでやるべきことがありすぎた。
×川大の国語研究室の学生は、とても厳しい授業を学生が協力して乗り切らなければならない。しかも授業で、所謂「共同作業」とか「グループ発表」などより個人発表が多いから、個人個人がむき出しになりつつ、心理的な一体感が次第に生まれてくる。前にも書いたが、全員平等に発表で酷い思いをするからである。震災後の一体感の様なものだ。しかも、おしゃべりする部屋があるのがよいですね。廊下に漏れてくるギャハハ声を聞いていると、実にゴミ屑の様な話題で盛り上がっているようだが、ときどき太宰治や古今集の引用が混じっている。部屋を覗くとジャンクな食べ物の匂いでまさにゴミ屑であることが判明するのであるが、国歌大観や中華書局、戦時下の古本の匂いも混じっている。というのはよく言いすぎで、漢字の並んだ本の下に「君に届け」や「スティールボールラン」などが置いてあったりする。まさに、バフチンのいう「カーニバル」状態、いや、そうではなく、ただのゴミ溜めであるが、こういうところからしか面白いものは生まれない。Iさんはこういうものに懐かしさを覚えるのであろう。国語研究室の卒業生にはこういう学生が少なからずいる。外の世界は、よほど酷いことになっているであろうか(笑)まあ酷いわな、どう考えても。
だいたい、要領の良いスタイリッシュな個人がいくらカッコつけたとしても、だいたい大したことになっていないのは、この10年ぐらいではっきりしたのではあるまいか。一方、いま世間で称揚されている協働とか、コミュニティ再生とかゆー主張は、上の様なゴミ溜めを解体し、淋しい個人を翼賛にほいほい付いていくようにただ束ねようとしているだけである。だからこういう動きは、少人数のゴミ溜め的協働を嫌う。某大学ではないが、集会届けを要求する癖に、人とのつながりを称揚するというのは、一見矛盾しているようで、人を管理しようとする人間達にとっては極めて合理的なダブルバインド作戦(笑)である。
で、その必要であるところの良きゴミ溜めであるが、ただ集まって過ごすだけなら、まさに単にゴミ溜めである。ゴミに混じる文化の香りがなければ懐かしくもなんともない。やはり実力がなければその香りは生じない。ただ、学問によってはそんな感じにならないことも多いらしいのだ。もしかしたら、こういうのは文学や哲学に限った話ではないかとも思う。そこでは、個人が虚勢を張ったりカッコをつけたりできないからだ。文学や哲学がそれを禁じるからね。
追記)ゴミ箱に「萌えるゴミ」とか張り紙をするのは、お外の世界ではやらない様に。