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田島正樹氏の「『神聖喜劇』論」を読み直してみたのだが、私は、『神聖喜劇』の日本浪曼派についての批評は不徹底であり、だからこそ田島氏の示唆する公共的な「政治」が生じたりもするのだと以前考えていた。しかし、どうも最近、その不徹底にはそれなりの意味があるようにも感じられる。ついロマン派の道程にはなにかそれこそ浪漫的な「深さ」を見てしまいがちであるが、深さは表現されなければ「ない」可能性が常にある。三島由紀夫が『きけわだつみのこえ』を「嘘だ」と批判するのも気になるね。確かに嘘はあるだろうが、深さがないが故の虚無としての深さだってありうるのだ。
とか考えながら、『神聖喜劇』をめくった後に、アルンダティ・ロイの『民主主義のあとに生き残るものは』をめくる。なぜか、昔吹奏楽で吹いた「秋空に」を思い出しました。