★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

積雪と道徳――喜兵衛と水戸黄門

2018-02-12 23:32:11 | 文学


高×のくせに夕方から吹雪となった。こんな夜は、山本周五郎の「裏の木戸はあいている」とかを思い出す。たしか昭和30年頃の短編である。ある男が自宅の裏の木戸を開けていて、誰でも金を持ってっていいよ、ということをやっている。(下手な文になってしまったが、まあそういうことをやっている)最後の章で、50代の男が雪の日に静かに木戸を開けるところが印象に残っている。

「家に出入りの吉兵衛という桶屋がいたが、貧窮のあまり、妻子三人を殺して自分も自殺した、ということがあった」

「父のところへ客があって、その話がでた、客は、よく覚えているが、藤井兄弟の父の図書どのだった、二人は吉兵衛の一家自殺を評して、――銀の一両か二両あれば死なずとも済んだであろう、そのくらいの金なら誰に頼んでも都合ができたであろうに、ばかなことをする人間もあったものだ、……二人はそう云った、誇張ではない、殆んどこのとおりに云ったのだ」
「私はそのとき思った」と喜兵衛は少しまをおいて云った、「差配の老人もそう云い、父や図書どのも同じように云う、だが、はたしてそうだろうか、銀の一両や二両というけれども、それは吉兵衛が死んだあとだからで、もし生きているうちに借りにいったらどうだ、こころよく貸す者があるだろうか、-―いや私にはわかっている、かれらはおそらく貸しはしない、少なくともそういうことを云う人間は、決して貸しはしないんだ」


こんな考えがあって喜兵衛は木戸を開けてあったのである。

しかし、わたくしは今振り返ってみて、このような短編に不満を持つ。これを長編にしてテーマを保てるかどうか、それこそわれわれにとっての問題だと思うからだ。

昼間、お茶を飲んでいたら、東野英治郎の水戸黄門の再放送がやってて、笑いながら観てたのだが、――なぜかといえば、「子の不始末は親の不始末」などという一見もっともらしい(でもないが)説教を、一瞬で悪役と分かる御仁がしていたからである。まあ別にそれはいいのだ。問題は、そのあと水戸黄門がその一瞬で悪と分かる人をたたきのめしてしまうことである。

ここにも、やっぱり粘り強く道徳を考える粘り強さが欠けている。

自虐と草食

2018-02-12 05:47:08 | 文学


西村賢太の作品は、いまどき珍しい、一気に一冊読めてしまう純文学である。その文章にはもちろん、彼が尊敬する田中英光や藤澤清造などの影があるが、一種の落語みたいなものでもあって、その技術がすごく洗練されている。村上龍が、技術的に完璧とかなんとか言っていた気がするし、そこには批判的なニュアンスがあったのであろうが、――、やはりこれはこれで努力の賜なのであろう。この人の文章には、根がマニアであることからくるのであろうが、研究者的な執念を感じる。

そこから感じられるのは、いったい、われわれが、文学とか研究とか大衆娯楽とか呼んでいるものの実態とは何なのかという疑問である。その真の名をわれわれはまだ見出せていない。そういえば、研究者には、ファンタジーや歴史小説を書く人よりも、私小説を書くタイプが多い気がする。いや、いまやイワン・ヤーコウレヴィッチのような者も多いので、いわば、「鼻」を創作する才覚のないゴーゴリの方が多いか……

内容的には、いつものあれなのであるが、葛西善蔵と嘉村礒多のちがいについて、自虐性と加虐性の現れ方の違いにみているところとか、草食系とは妻に飽きてもがんばって働いている多くの人間のことだみたいな感想はおもしろかった。草食系が、明らかに人間関係からくるものだというのは、わたしも同感である。自虐性と加虐性の強い相関については、大人の常識として登録しておいて良さそうだ。日本人の謙譲の美徳と残酷さの関係にもそのまま当てはまることである。