ケストナーではない「飛ぶ教室」という物語は様々あるが、ひらまつつとむの「飛ぶ教室」はジャンプ史上最高傑作などと一部では人気らしい。八〇年代の作品なので、核戦争後の世界を描いているといっても、そのころのほんわかエロギャグみたいなものもちりばめられてあり――、生き残った先生も美人で……みたいな作品である。
考えてみると、作者のねらいを度外視してみれば、永井豪みたいなエロテイクな残酷世界や楳図かずおのような恐怖世界につながる要素がありながら、よくもヒューマニズムの限界内にとどまったと言うべき作品である。案外、はやく打ち切れられてよかったのかもしれない。これ以上続けると何かお化けみたいなものを出さざるをえなくなったかもしれないからである。
作品は、地下シェルターと廃墟になった外部の世界との往復でできている。放射能の心配がありながら案外往復する。
その母体になった習作?では、原爆症で死ぬ美人の先生は、最期にノアの挿話を話している。それが、単行本になったジャンプの連載作品になると、一人一人に手紙を書くような理想的な先生になる。――彼女は伝道師からある意味で聖母に昇格しているのであろう。
生きているときは、セクハラをする教頭をぶんなぐったりしている先生が脱宗教化された聖母として昇天してゆく。われわれの社会が何を望んでいるのか、ここからも分かる気がする。
「三里塚・第二砦の人々」は、結構長い作品であった。三里塚闘争で用いられた戦術のなかで、砦の下の穴での籠城があるが――、最後にでてくる青年が穴掘りをやって楽しげである。
最近、どうもわれわれに逃げ場がないのは、コンクリートで地面に穴を掘れなくなったというのがあるような気がするのである。文学的な「穴」については少し書いたことがあるが、穴を上のまんがみたいにシェルターとしてしか認識できないとしたら、いやなもんだ。穴掘りはもっとわれわれにとって本質的なものなのである。――たぶん。「方舟さくら丸」の主人公は、もっともっと掘るべきだったのかもしれないのだ。
農民の反対同盟は、支援の学生たちを穴には入れなかった。この映画では、農民たちと学生たち、政党から派遣されてくる者たち、といった人々の軋轢の一部も描かれている。そこで議論の中心として撮られているのはおばさんたちである。それは、決して聖母ではない。