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ひさしぶりに山本健吉の源氏物語論(『古典と現代文学』)を読んでみたが、結構面白かった。古典文学の教育はいろいろやり方があると思うけど、こういうものをきちんと扱ったっていいと思う。わたくしが近代を専攻したきっかけはいろいろあるが、高校の時に古典文学の教科書を一通り教えられたあとで、文学としては近代の方が上だなと勝手に思い込んだことが大きかった。それはわたくしの狭隘な主観だけでなく、実際、源氏や伊勢に対する文学としての批評的な視点が古典の授業に欠けていて、なんでこれが面白いのかちゃんと教師がいわなかったことが原因だったような気がする。読めるようになることが古典の場合は大変なので難しいといえばそうなのだが、高校生ともなれば、源氏のスキャンダルや竹取の婿選びのエピソードだけで本当に喜んでいる生徒はもうわずかしかいない。無常観なんて50年早いし、をかしやあはれだって――高校生が似た言葉で社交辞令をやっているのは、まさに社交辞令であって、ほんとはもう少し既に大人なのである。授業がコミュニケーションの場所と化してから、古文の授業もますますそういう社交辞令的な言葉を確認する場になってしまったのではないのか。
最近は、ちょっとこの十年ぐらい離れていた書店に赴き、ぶらぶらとするように心がけている。
かなり様変わりしてしまったが、たしかにまだまだ文学らしきものは漂っている。それを文化の一種として分類したりするから、文系学部の是非みたいな頭悪そうな感じに議論が変化してしまうのだが、もともとわれわれの社会の成立そのもののなかに文学は泳いでいる。それは言霊ではない。言霊を生み出す何かであり、近代文学は西洋文学から学びながら結局は、その泳ぐものに接近していった。
どこかで山本健吉は、「稜威(イツ)」ということを論じていて、生きる力を取り込むみたいな意味とかなんとか言っていたように思うが、――いまならさしずめ「元気を貰う」みたいな感じであろう。元号も桜も天皇も、はたして稜威なのであろうか。こんどじっくり考えてみたいのだが、朝ドラとかそういうものも、稜威みたいなもののような気がする。これは文学の問題そのものである。
安倍首相が、元号に込めた思いを話すとか言っていたらしいが、――だいたい、たかが言葉に思いを込めたりするのは、ある意味で近代的であろう。古典がそんな風にして新たな意味を付与され稜威として機能してしまったのが近代だ。恐ろしいことだが、どうも日本社会はまだまだそんな近代である。我が首相は、稚拙な和歌を桜の下で詠んだりするような人なのであるが、案外上の事情を直覚しているのかもしれない。
で、これからどうするかなのだが、――ちなみに、わたくしは山本健吉みたいに「細雪」が「源氏物語」より平板だとは思わないのだ。こういう素朴な重大な問題がまだまだ永遠に論じられなければならない。そういう時には、稜威としての言葉をなでている状態では何も出来ない。むろん、言葉そのものから思いを読み込むみたいなのは、うまくいかなくなった親子関係じゃねえんだからさ、幼稚園並みだ。解釈や創作はそんな次元ではなんともならず、社会を考えることと同等の膂力を必要とする。目指すは、いわば、言葉の「組織」である。