
スティーブン・ミルズのよく知られた本に『歌うネアンデルタール』というのがある。詳細には読んでないが、ざっと目を通したことはある。言語と音楽には、先駆体が「Hmmmm」という状態があった。Holistic, multi-modal, manipulative, musical, mimetic の頭字語で、ネアンデルタールは、これを全体的に発達させて歌い踊るコミュニケーションを行っていたのにたいし、ホモサピエンスは象徴言語によって、それが抑制されている。しかし我々が音楽好きなのはそのなごりというか、先駆体が死んでないおかげというか、――そういう感じだという仮説である。
確かに、我々は異様に音楽が好きであり、しかもそれはかなり部分で言語的なのである。
わたくしは、そういう性質が何か不快で、音楽への複雑感情もあって、音楽と言語を切り離して考えたいと思ってきたが――、昨年度に音楽と文学相互に関わる論文をちょっぴり試行してみたところ、確かに、二つは別物でないという感じがしたのである。ルソーの『言語起源論』は確かにすごかったのかもしれない。
そういえば、我々は公の空間で鼻歌を歌わなくなった。そのかわり、イヤホンやヘッドホンでしゃかしゃかと音楽を聴きながら歩いている人も多い。わたくしも幼少期以来完全な音楽中毒なので、イヤホンやヘッドホンをつけずとも、だいたい頭の中でオーケストラが鳴っている。
しかも、体調が悪かったりするときに(本当に苦しくなったときは別だが)音楽に頼っている。音楽に体が逃げているのが分かるのである。わたくしの勘違いかもしれないが、アレルギー反応にもちょっと効いたりする――。
今回、ミルズの本を眺め直してみたら、12章の性交渉と音楽を論じた章の冒頭に掲げられている(ミルズは後半、論のイメージにあう好きな楽曲を掲げている)のが、ヴィヴァルディの「トランペットのための協奏曲変ロ長調」であった。
Vivaldi - Trumpet Concerto in A flat
この曲を選択するような男は嫌いである――そんな気がした。