★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

糞尿を捧げ持つ

2019-03-21 23:49:52 | 思想


三里塚闘争の第三次測量阻止闘争の記録映画のなかで、農民たちは、糞尿をかぶり、また機動隊に投げつけようと踏ん張っていた。わたくしも田舎もんだから、樽をひっくりかえしたり、でかい柄杓でぶちまけたりしたのか勝手に想像していた。わたくしの頭にあったのは次のような文学作品でもあったからだ。

彦太郎は糞壺の縁まで来ると、半分は埋められたが、残りの半分に満々と湛えている糞壺の中に長い柄杓をさしこみ、これでも食くらえと、絶叫して、汲み上げると、ぱっと半纏男達へ振り撒まいた。わっと男達は声をあげ、左肩か浴びせられた先刻の背の低い男が、逃げようとしてそこへ仰向けに引っくり返った。貴様たち、貴様たち、と彦太郎はなおも連呼し、狂気のごとく、柄杓を壺につけては糞尿を撒き散らした。半纏男達はばらばらとわれ先に逃げ出した。柄杓から飛び出す糞尿は敵を追い払うとともに、彦太郎の頭上からも雨のごとく散乱した。自分の身体を塗りながら、ものともせず、彦太郎は次第に湧き上って来る勝利の気魄に打たれ、憑つかれたるもののごとく、糞尿に濡れた唇を動かして絶叫し出した。貴様たち、貴様たち、負けはしないぞ、もう負けはしないぞ、誰でも彼でも恐ろしいことはないぞ、俺は今までどうしてあんなに弱虫で卑屈だったのか、誰でも来い、誰でも来い、彦太郎は初めて知った自分の力に対する信頼のため、次第に胸のふくれ上って来るのを感じた。誰でも来い、もう負けはしないぞ、寄ってたかって俺を馬鹿扱いにした奴ども、もう俺は弱虫ではないぞ、馬鹿ではないぞ、ああ、俺は馬鹿であるものか、寿限無寿限無五光摺りきれず海砂利水魚水魚末雲来末風来末食来寝るところに住むところや油小路藪小路ぱいぽぱいぽぱいぽのしゅうりん丸しゅうりん丸しゅうりん丸のぐうりんだいのぽんぽこぴいぽんぽこなの長久命の長助、寿限無寿限無五光摺りきれず海砂利水魚水魚末雲来末風来末食来寝るところに住むところや油小路藪小路ぱいぽぱいぽぱいぽのしゅうりん丸しゅうりん丸しゅうりん丸のぐうりんだいのぽんぽこぴいぽんぽこなの長久命の長助、さあ、誰でも来い、負けるもんか、と、憤怒の形相ものすごく、彦太郎がさんさんと降り来る糞尿の中にすっくと立ちはだかり、昴然と絶叫するさまは、ここに彦太郎は恰も一匹の黄金の鬼と化したごとくであった。折から、佐原山の松林の蔭に没しはじめた夕陽が、赤い光をま横からさしかけ、つっ立っている彦太郎の姿は、燦然と光り輝いた。

――火野葦平「糞尿譚」


が、違った。みたところ、ビニール袋に入れて各自持っていた。

そのつるんとしたビニール袋が逆に、ざらついた映像のなかで際立っていたのがおもしろい。そのつやに繋がるのは、機動隊員のヘルメットぐらいだ。

つまり、糞=機動隊というつながりが成り立つ。それはつるりとしたものであった。

考えてみると、わたくしが小さいときに経験したトイレもさすがにプラスチックの便器を昔の木造便所に設置したものであったからつるりとしたものであった。

最後の方で、機動隊に詰め寄っていたおばさんの持つ糞尿はビニールではなく何かの容器で、その上には藁が積もっていた。ささくれだった運動の象徴のように見えた。