
御子たち、あまたあれど、そこをのみなむ、かかるほどより明け暮れ見し。されば、思ひわたさるるにやあらむ。いとよくこそおぼえたれ。いと小さきほどは、皆かくのみあるわざにやあらむ
パパが息子の本当のパパを目の前に言ってしまった有名なせりふである。今日は、ゼミで、ある論者の、漱石の修辞学的分析について考えた。で、修辞学におけるパトスとかエートスの話をして(エートスの話をやや間違えてしまった……)、トランプの演説が弁論術的には案外教科書的とかなんとかいつものでたらめをわたくしは述べていたが、冗談ではなく、――上の帝のせりふなんか、それがさりげない呟きであっても弁論としての効果を持つなかなか出来のよいせりふであり、実際、これを聞いた源氏は肝をつぶしてしまうわけである。さすが帝、なかなかの御仁である。このせりふをトランプが喋っていると想像してみたまへ。世界はまたまた大混乱だ。エリンギくんは、「おれはもしかしてトランプの息子なのか」と思うかもしれない。確かにそれはありうる、以前にも森元首相の息子に生成したホリエモンとかいう青年がいたから。レヴィナスではないが、私は私の息子、息子は私みたいな認識はそんなに奇異なものではない。
すると、帝は何もかも知って、「まあいいではないか、お前も俺もこいつも私だからっ」と言っているのかもしれない。源氏はまだ若く未熟だから、これからますます色道修行の旅にでるのであった。自分探しの旅なんて、自分の老いを確認したところでやっと始まると言うことも知らずに……。