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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

朧ろけならぬ契りと度胸

2019-03-06 20:11:38 | 文学


「あな、むくつけ。こは、誰そ」とのたまへど、
「何か、疎ましき」とて、

深き夜のあはれを知るも入る月の朧ろけならぬ契りとぞ思ふ

とて、やをら抱き下ろして、戸は押し立てつ。あさましきにあきれたるさま、いとなつかしうをかしげなり。わななくわななく、
「ここに、人」
と、のたまへど、
「まろは、皆人に許されたれば、召し寄せたりとも、なんでふことかあらむ。ただ、忍びてこそ」


ここだけ読むと、何か犯罪映画の一シーンのようだが、「朧月夜の君」との密会の場面である。朧月夜の興趣を共有するなんて――なんという前世からの契り、などといつもの調子で自分の腕の中に引きずり込んだ相手は、右大臣の娘――政敵の弘徽殿の女御の妹であった。そりゃまあ、舞台が舞台なのでこういう話は必然であったような気もするのであるが、――思うに、紫式部ははやくも書くことがなくなってきていたのではと疑われる。ただ、書くことがでてきた人になるとこうなる。

「いろいろごやっかいになりまして、……ではごきげんよう」と丁寧にお辞儀をした。三四郎は鞄と傘を片手に持ったまま、あいた手で例の古帽子を取って、ただ一言、
「さよなら」と言った。女はその顔をじっとながめていた、が、やがておちついた調子で、
「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」と言って、にやりと笑った。三四郎はプラットフォームの上へはじき出されたような心持ちがした。


この迷える子羊が朧月夜がなんたらという実践力をそなえた場合どうなるか。いうまでもなく、ドストエフスキーの描くテロリストになるわけである。冗談のようであるが、やたら歴史を弁証法的に統一して何かをしようとするときの危険性はこういうところからも察せられる。知に立脚するときの注意点はこういうところにもある。

皆朕が罪なれば

2019-03-06 19:10:40 | 思想
会田雄次の『ヨーロッパ・ヒューマニズムの限界』という本の中に、「皇室のあり方について」という文章がある。そこで氏は、慶応4年にでた「国威宣布ノ宸翰」を引用して、明治天皇が示したのが天皇の「完全無私」という性格であったと解している。

蜜かに考ふに中葉朝政衰へてより、武家権を専らにし、表には朝廷を推尊して実は敬して是を遠ざけり、億兆の父母として絶えて赤子の情を知ること能はざるやう計りなし、遂に億兆の君たるも唯名のみに成り果て、其が為に今日朝廷の尊重は古に倍せしが如くして朝威は倍衰へ上下相離るること霄壌の如し。斯る形勢にて何を以て天下に君臨せんや。今般朝政一新の時膺りて天下億兆一人も其所を得ざるときは、皆朕が罪なれば、今日の事朕躬ら身骨を労し、心志を苦しめ、艱難の先に立ち、古列祖の尽させ給ひし蹤を践み、治績を勤めてこそ、始めて天職を奉じて億兆の君たる所に背かざるべし。

確かに中世以来の武家政権による親子分離政策(違うか)によって、霄壌のように離された自分と民との関係を何とかしなくてはならず、上手くいかない場合は?「皆朕の罪」であって、「朕躬ら身骨を労し、心志を苦しめ、艱難の先に立」たなければならないという。このあと、むかしのご先祖は、部下と仲良く戦争の先頭にたっておったぞ、みたいなことが書かれているので、今とはだいぶ違うように思うが、会田氏が「完全無私」が実は明治天皇が崇拝されるに至った原因であるとみなしているのはなんとなく分かるし、――氏が、私生活の充実という模範を示すような現在のありかた(昭和41年)よりも、「新しい明治天皇」のようなものがこれから必要なのではないかと言っているのも、氏の論理からするとわかった。それは、日本人は、横の関係よりも縦の関係でしか自分を支えられないという哲学による論理である。

かんがえてみると、最近の天皇のあり方は、会田氏の推測したとおりになっている。今の天皇と美智子皇后の「理想の家族」像は、平成になってからほとんど消滅し、そのかわりにあまり上手くいかなかった子ども・孫たちのスキャンダルが話題になって、「理想の家族」像が上書きされる一方、天皇皇后は戦争と災害の人心を鎮めにかけずり回る高度ボランティア的な何かになってしまった。確かに、戦の先頭に立たない「新たな明治天皇」みたいな感じである。われわれも、いつの間にか、完全無私みたいな人間をフヤしてしまっている。



テレビで、「HERO」という木村拓哉主演の映画がやっていたので、観てみた(はじめてみたぞ、このドラマ……)。わたくしがよかったと思うのは、ここには未熟な子どもが一人も出てこなかったことである。物語の目標は、悪い奴を裁くというというより、愛する人を見つけることで、そこで物語は止まっている。キムタクと松たか子が演じてきた一連のラブコメであるから当然なのであるが、青春ドラマであるうちは、「チーム検察」も見れたものである。ただ、キムタクを好きな検察事務官・松たか子が、上司と部下なのはなんかあれである。現実問題として、ボスについて行きますみたいなこういう女子は、もっと底意地の悪い奴に決まっている。(個人の見解です)

明治天皇は、親を敬愛するみたいな子が、底意地の悪い奴になってゆく可能性はまったく考えていない。明治天皇はこのとき十五歳。自分が子どもなんだからしょうがないかもしれない。いや、そんなことはない。

廃疾

2019-03-06 01:00:29 | 文学


わたくしは、体調が悪いときに枕元の小説を読んで、案外読めてきたら回復の兆し、しかもその作家はすぐれていると思うことにしている。西村賢太の小説はかなりの高熱でも読めた経験があり、今回も一気にこの本の最後にある中編を読むことが出来た。

生色のない陰気な不機嫌顔にも程ってもんがあるぞ。それに、その肩の後ろにいる年寄りは誰なんだ。背負ってきてんじゃねえよ


これは祖母を亡くし実家に行っていた秋恵にぶつけた言葉の一節である。西村賢太の小説は「私小説」とか言われているから、人格がひとつの物語だと思われているが全く違う。ある意味で、主人公がかかえている「根が**に出来ている」という人格(あるいは、この本の題名のように「廃疾」と言ってもいいが――)が、情況によって次々に交代してゆくのが彼の小説である。我々は、ふつう、人格の統一性を保つために、上のようなせりふを吐く人格を押さえ込んでいるが、この主人公はそれをしないだけのことである。酷い人生を送っていながら、主人公がまったく闊達であるのはそのせいである。

ただ、このこのような達成が、近代文学の雰囲気というより、落語調であるのは気になる。――もっとも、気になるどころではなく、近代文学の叙述文体成立に際して問題だったことが繰り返されているのである。

そういえば、今日、『ビバリーヒルズ高校白書』のルーク・ペリーが亡くなったそうである。彼も、「ジェームズ・ディーンの再来」とか言われて大変だったと思う。再来なわけないじゃないか。