大学生の頃、売っていた気がするマンガだったので、ついコンビニで買ってしまったのが、林壮太氏の『黄金色の風』である。日本陸軍の中国大陸での行動について、一人の軍人青年が中国人の子どもに撃ち殺される(復讐される)までを描いた作品である。戦争を描く作品は多くあり、多くあること自体が考察の対象になりうるが、――とりあえず、何が描かれていようとも、賢しらな感じがする作品は信用できない。この作品は注意深く視野を狭くしワンエピソードに限った。それ自体、作者が戦争責任をどのように考えているかがよくあらわれている。我々は、逆説的だが、視野を自分の感情に限ることに拠ってしか、責任問題を論じることは出来ない。坂口安吾が、戦争がおわったときに、これから人間の本性を観た奴がきちんした小説を書き出す、みたいなことを言っていた――わけだが、わたくしはそれは楽観的だったような気がする。われわれはいろいろ経験すると自分の感情がむしろ分からなくなるのではないか?
中野重治が『近代文学』の連中と行った座談会をみると、やはり『近代文学』の若手たちが自らの視野が開けた感じを、中野重治にぶつけていた。中野は全然こたえない。これはこれで若手たちの危惧は当たっていた側面もあるのだが、――自分の感情がよく分からなくなってしまっているのは、戦時中逡巡させられた若者たちの方であった。中野はたぶん、戦時中、現実をある意味軽蔑しきって乗り切ってしまっている。そらまあ、誠実ではないのかもしれないが、誠実であればいいというものではないのも自明の理だ。
この頃は、ヒロポンを打っていたひとも多かった。これはよく言われていることだが、戦前から、特攻とか徹夜のために必要なひとたちがいたので戦後も流行ってしまったのである。最近、わたくしも病院などでいろいろな薬を貰ってくるが、確かに薬というのはよくきく。ある種の神秘である。――こんなことを感じているようでは、我々はほとんど精神的にはドラッグ中毒者だ。そういえば、また薬関係でアーチストが捕まっていたが、――アーチストは作品のために野垂れ死にしてもかまわん連中がほとんどのはずであり、教育者面しているわたくしとしてはあまり興味はないと言わざるをえない――が、精神を持たせようとする努力に一般人とは桁が違う神経が必要なことはわたくしでも分かる。それに――作品の生成はまあ神秘的であり、これまた薬の作用も同じである。この同質性がどこかでわれわれをひっかける。――いうまでもなく、その作品とは優れていないクズみたいなものもふくむからやっかいだ。
むしろ、作品がうまくいかないときにこそ生じる空白を神秘としてみなすデカデンツへの誘惑が……、これは冗談ではなく、ものをつくろうとしたやつにはほとんど経験済みの出来事なのではあるまいか。だから、ぼーっとしたデカデンツはだめなんだ。
まあ、べつに何でもかまわんよ、人は人、自分は自分である。
わたくしはしかし別に、ワイルドみたく
うわさになるより悪いのは、うわさされないことだけである
とまでは思わない。自信がないからであろう。