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わたくしは、吉本隆明の真価を、連合赤軍や三島事件の時代にかかれた『初期歌謡論』のような書物にみたいと考えているが、――院生の時にそれをめくったときには、案外それは文化研究みたいにみえた。当時のわたくしは、それが花田的なものにも三島的なものにも回収されないための、吉本の抵抗のようにみえたが、それは果たして「文学」ではなく、「文化研究」なのではないのかと疑ったわけである。
いま読んでみればもう少し違った感想を持つかもしれない。
わたくしは、ともかく、現在を閉塞と感じるならば、問題を蘇生させるしかないと思っているのである。
千葉雅也氏が、自己破壊のマゾヒズムを体現するプロレスラーは、「ジェンダー以前の興奮を体現している」と述べていた(「力の放課後」)。千葉氏の観点とは違うが、そういう「以前の興奮」を見出すことが重要である。問題とは興奮である。もっとも、広い意味での言説のプロレスや実際のプロレスを見つめ続けていても見出されるとは限らない。