★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

紫さん的がんばりの射程

2020-04-04 23:36:46 | 文学


まづは、宮の大夫参りたまひて、啓せさせたまふべきことありける折に、いとあえかに児めいたまふ上臈たちは、対面したまふことかたし。また会ひても、何ごとをかはかばかしくのたまふべくも見えず。言葉の足るまじきにもあらず、心の及ぶまじきにもはべらねど、つつまし、恥づかしと思ふに、ひがごともせらるるを、あいなし、すべて聞かれじと、ほのかなるけはひをも見えじ。

仕事というのはこういうことがある。引っ込み思案な集団は神経は張り詰めているのに、恥ずかしいミスが恐い、という訳で身を竦めてしまう。ただでもこういうことがあるのに、その人それぞれの適性に合わせて仕事しましょうということになれば、恥ずかしさが消えただけで、堂々と身を竦めるという奇妙な状態になる。――最近、よくみる光景である。

我々は集団でいると互いの脳が漏れ出してそれらを共有しているような状態になる。学会に参加しただけで賢くなったりあるいはその逆だったりするのはそのせいであろう。紫さんは、自分が漏れ出す脳みそとなって女房集団を叱咤激励しているのであろう。

マルクス・ガブリエルが https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/news/8624/2 で、「コロナ危機 精神の毒にワクチンを」(斎藤幸平氏訳)を書いている。グローバル資本主義の感染によって引き起こされている事態(気候変動を含む)を考えとかにゃ、コロナ対策は、あるニューヨーカーが言うところの「科学を信奉する北朝鮮」を生み出すだけだ、我々が目指すのは、「共産主義Kommunismusではなく、共免疫主義Ko-Immunismusである」――「競争的な国民文化、人種、年齢集団、階級に私たちを分断する精神の毒に抗するワクチンを打たねばならない」、――ガブリエルのいつもの調子なんだけど、こう言っている。パンデミー(全民衆)に必要なのは「ウイルス学的パンデミー」のあとの「形而上学的パンデミー」なのだ、と。前者は我々を救うことはない、グローバリズムに対する倫理的教育こそが必要だというわけだ。

かかる意見に対しては、西洋人のいつものいい子ちゃんか、という感じを我が国ではもたれがちであって、外山恒一氏なんかは、コロナと同盟を組んで(感染して)死を覚悟で街に繰り出そうと述べている。コロナは人間が行うグローバリズムなんかとは別次元の素早さでパンデミーに浸透する。この能力に乗らない手はない、と言うわけだ。ちょっと『〈帝国〉』の人の――制度的に総動員されているのを逆手にとってそのまま総動員的に革命だ、みたいな発想に似ているような気がする……。もっとも、わたくしの経験では、この換骨奪胎作戦はだいたい換骨奪胎というやつが非常に観念的操作であったことを露呈させて終わる。結局、外山氏が理屈でなく実践的に孤立しているうちにだけ革命がある。

そういえば、昔、NAMの決起集会を覗きにいったとき、NAMはウィルスのような存在としてあるんだと盛り上がっていた。

しかし、我々はウイルスに比べて恐ろしく複雑に出来た巨大な欲望ロボットなので、なかなか素早く動けないのである。ウイルス的になろうと思う革命運動はつねに我々の存在と欲望を有限化したがるがそんなことは出来ない。

上の紫さんだって頑張ってどこまでやれたかどうか。もっとも、紫さんは「源氏物語」で一種の日本人の形而上学的パンデミーをつくりあげているとはいえるかもしれん。くやしくて悲しくて頑張った結果、狭い宮中を越えてウイルスを撒き散らしたのだ。

スペイン風邪が世界大戦の火種をつくったように、今回のパンデミックで恐れなければならないのは、むしろ速やかな全世界的北朝鮮化である。だって、ベイシックインカムみたいなことをせざるを得ないんだろう?しかも、中国のようなテクノロジー全体主義はいやだと。すると、なんかヒューマニズム的なことを口先で言う人に厳密に管理されるみたいなことになりはしないかな。しかも移民の扱いは面倒なのでなかったことにするというような。