西田幾多郎の最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」は、空襲下の東京で書かれたのだが、そのなかで繰りかえされている「終末論的な平常底」はそのなんとなくユーモアが感じられるところがよいと思う。
西田哲学は強弁だとか呪文だとか未整理だとか言われてきたが、最近はもう思弁的実在論やらなにやらのなかで「むしろ読めるぜ」ということになってきている。だいたい、素人が哲学を現実の説明だと思う誤解が西田を遠ざけていた。西田がよく言う「~でなければならない」というのは文字通り解されなけれなければならない。現実はある種の当為によって見えてくるものである。考えてみれば当たり前であるが、行為によって意味が生じるのであって西田の文章はそれを体現しようとしていた。だから、最初は机に座ったぼんやりしたところから始まるみたいな文章なのであるが、次第に文の進む当為の道によって、見えてくるものがあって、それこそが真だと信じられているのである。
それにしても、空襲に怯えながら、つまり終末に覚えながら、机の前に平常心で座り続ける西田の頭には、平常心によってしか感じられない地獄の底のような感覚があったのであろう。確かに、その当時、多くの人にそれはあった。西田は、以前からそんな場所の存在を直覚していただろうから、戦争によってやっとそこに人々が追いついたのだと思う。コロナによって我々はそれを思い出す。
西田は論文のなかで、所謂「日本精神」を、膚薄な平常底とみなしている。少し曖昧な書き方をしているが、源氏の神秘と芭蕉の枯淡を相対的にしか西田は評価しておらず、「終末論的に、深刻に、ドストエフスキー的なるものを含んで来なければならない」と言っている。そんなものは、米軍に追い詰められている日本にはなかったが、――世界史的な日本精神みたいな夢を西田はみていたのだ。それはドストエフスキーが源氏物語を書くような文化である。その意味で、昭和初期の近代文学と西田は似たようなところを向いていた。向きすぎていたと言ってよいような気がする。
そこにさへかるといふなるまこもぐさ いかなるさはにねをとどむらん
かへし
まこもぐさかるとはよどのさはなれや ねをとどむてふさははそことか
時姫は蜻蛉さんよりも先に兼家と結婚していたんだが、兼家は時姫はおろか蜻蛉さんのところにも寄りつかなくなっていた。だから、彼女は蜻蛉さんに「底(そこ)つまりあんたのところからも離(か)れてしまったという、真菰草のようなあの方はいったいこんどはどこの川に根をはっているんでしょうね」とか言われても困るのだ。「あの人がよりつかんのは私のところだボケっ あんたのところに寝付いているときいてるんですが何か?」と返すしかないないわけである。
西田幾多郎はこういう「底」が我々に根をはっていることに絶望していたのであろうか。兼家は真菰草であり底であり沢である。兼家みたいに机の前に座っていられない輩がたくさんいるわけであった。しかも、彼を相手にする女たちも蜻蛉なのである。確かに膚薄のようである。