★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「おいらか」今昔物語

2020-04-06 23:12:58 | 文学


さっき志村けんが笑福亭鶴瓶の「家族に乾杯」に出演したときの録画が流れていた。二人はほぼ同世代の芸能人だが、素人と一緒に場を形成して行くのは鶴瓶の方が遙かに上手で、志村けんの方は引っ込み思案的な穏やかな人で、しっかり人工的に作品をつくるあげる人だということが伝わってくるようだった。考えてみると、教員にも二つのタイプがいるはずで、前者が最近は持ちあげられているが、理不尽な話である。面白いことに、鶴瓶は落語家でもともと一人芸の人で、志村けんはドリフターズだから集団芸のひとなのである。分かりやすくするために、ふたりを引き合いに出してみたのだが、――教員でも案外一人語りをしたがる人間ほどなんだか対話的になってゆき、そうでもない人が作品みたいに講義を洗練させようとするものである。

しかも、独りよがりなのは、講義をしたがる人間よりも学生との対話をしたがる教員だというのが、なんとなくわたくしの経験から言える気がするのだ。おそらく、それが独りよがりとみえるのは自信のなさを他人との対話で埋めているからである。対して勉強している人間というのは、自分に対してもだめな人間に対しても羞恥心があるから、対話が却って恐ろしくなる。

それ、心よりほかのわが面影を恥づと見れど、えさらずさし向かひまじりゐたることだにあり。しかじかさへもどかれじと、恥づかしきにはあらねど、むつかしと思ひて、ほけ痴れたる人にいとどなり果ててはべれば、
「かうは推しはからざりき。いと艶に恥づかしく、人見えにくげに、そばそばしきさまして、物語このみ、よしめき、歌がちに、人を人とも思はず、ねたげに見落とさむものとなむ、みな人びと言ひ思ひつつ憎みしを、見るには、あやしきまでおいらかに、こと人かとなむおぼゆる」
とぞ、みな言ひはべるに、恥づかしく、人にかうおいらけものと見落とされにけるとは思ひはべれど、ただこれぞわが心と、ならひもてなしはべる


ボケキャラを演じていた紫式部であるが、「もっとつんつんしているかと思って嫌っていたのよ。案外「おいらか」(おっとり)してるのね」と言われて恥ずかしくなる。ボケキャラは高慢な人とまともに付き合わない為の作戦であったが、そういうことをしていると却ってひとを遠ざけてしまう。本心では人を馬鹿にしているからである。しかし、注目すべきなのは、紫さんの決断の早さであって、――本物の「おいらか」なひとになるという決断をしたのである。で、中宮とも打ちとけることができた。ここには、社会的人間として馴致しようとする葛藤がない。ただ「恥ずかし」と思っただけである。これは我々にはちょっと想像出来ない。

女らしい我ままや、おしゃれは、級の中で誰よりも持っていた。家が、金持ちの実業家であり、末の娘であることから、ちっとも憎らしくはないたよたよとした処、無意識の贅沢、おっとりした頭の働きが、ありありと思い出される。
 その他、私としては、胆に銘じ、忘れ得ない記憶がその人に就ては与えられている。私は、幾度も、
「可哀そうに」
と云った。思い出すと、可哀そうに、と云わずにはおられない。――


――宮本百合子「追憶」


本当は、紫さんだって、本来的に育ちがよかったのだろうと思うんだが……