あからさまにまかてゝ、二の宮の御五十日は、正月十五日、その曉まいるに、こ少將のきみ、あけはてゝはしたなくなりたるにまいり給へり。
中宮の次男が生まれて五十日のお祝いが、正月十五日にあった。帰省していた紫さんは当日の夜明け前に参上したのだが、小少将の君はすっかり明るくなって決まり悪い時間になってご出勤。
面白いのは、案外女房の世界がゆるいということである。以前、紫さんも帝の行幸の時にはうじうじして文句を言ってギリギリに間に合う?みたいな行動をとっていたし、ここでも同室の若い女房が遅刻?である。ここの挿話は小少将といかに仲がいいかを示すものなので、「【ベスト】嗚呼私たち遅刻魔よ【フレンド】」みたいなのりなのかも知れない。事実はともかく、ということである。
例の同じ所にゐたり。二人の局を一つに合はせて、かたみに里なるほども住む。ひとたびに参りては、几帳ばかりを隔てにてあり。殿ぞ笑はせたまふ。
「かたみに知らぬ人も語らはば。」
など聞きにくく、されど誰れもさるうとうとしきことなければ、心やすくてなむ。
「お互いに相手の知らぬ男がしのんできたらどうする?」というエロ道長が言う。でも私たち友だちだから大丈夫だよねー、というわけである。
むろん、女の心はなんとやらなので、この二人が何をしていたのかは分からない。だいたい、目の前のエロ道長との関係はどうなのであるか?お互いに知っている男ならいいのか?例えば、道長ならお互いによいのか?
元来主人は平常枯木寒巌のような顔付はしているものの実のところは決して婦人に冷淡な方ではない、かつて西洋の或る小説を読んだら、その中にある一人物が出て来て、それが大抵の婦人には必ずちょっと惚れる。勘定をして見ると往来を通る婦人の七割弱には恋着するという事が諷刺的に書いてあったのを見て、これは真理だと感心したくらいな男である。そんな浮気な男が何故牡蠣的生涯を送っているかと云うのは吾輩猫などには到底分らない。或人は失恋のためだとも云うし、或人は胃弱のせいだとも云うし、また或人は金がなくて臆病な性質だからだとも云う。
漱石というのは強がりを書く作家であるが、紫さんがそうでなかったとは言い切れぬ。ただある意味うらやましいのは、漱石みたいに「牡蠣的生涯」とか言ってしまう視点が紫さんにはないということである。