源氏の物語、御前にあるを、殿の御覧じて、例のすずろごとども出で来たるついでに、梅の下に敷かれたる紙に書かせたまへる
すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふ
とて、賜らせたれば
人にまだ 折られぬものを 誰かこの すきものぞとは 口ならしけむ」
紫式部の返しは異様にエロティックであると思う。彼女は子持ちのくせに「わたくしは折られたことはありません(男の経験がありません)誰が、私のことを「好き者」と言っておられる?」と言い放っている。道長が「好き者として評判のあなたを口説かずにいる男はあるまい?」と一般論的に誘っているところに対して、「私処女だけど誰が好き者と言ってるの?」という彼女の返しを聞いた道長は、「好き者と言っているのはまず俺だよね、俺は君のことを好き者として想像した当事者だよね、処女としての君を」という初恋の当事者に似た感情を誘発しているのではなかろうか。これは処女信仰?を利用した、非常にどぎついやりとりであって、こういうやりとりをしたあとじゃ、むしろお互い拒むことができなくなってしまうであろう。――これは和歌を用いたやり口ではあるが、行動を促す実効力があり、こういうやりとりによって、文化が政治の中心を強制して、文化の中心という権力を獲得するのではなかろうか。要するに、結果的にではあるが、紫式部に権力的な意思があるのと同じなのだ。志村けんと石野陽子のコントにはそれはないから、彼らはひたすら同じ状況を繰り返して行く面白さに浸るのである。80年代にみられるのは、こういう反復としての快楽だったような気がする。これは権力意思とは無縁の庶民的なものであった。志村けんのコントにセクハラがあるかという問題は、こういう問題と絡まっている。
「首切りを取消せ!」
彼らの強く踏みつける靴の下でダラ幹組合旗はへし折られ、蹂躙され、破れた。彼らは今こそ全協の旗の下でストライキに起つた。
汚れた旗よ、失せろ!
俺達は新しい全協の旗を高く掲げよう!
――永崎貢「組合旗を折る」
これだって、反復が命の文化である。ただ、汚れた旗を折りつづけるのは疲れる。道長だってそれほど軽いノリで紫さんを誘ったとは思えない。反復ばっかりやっていると、恋や革命は難しくなるのだとわたくしは思う。