目も見合はせず、思ひ入りてあれば、「などか。世の常のことにこそあれ、いとおかしうもあるは、われを頼まぬなめり」などもあへしらひ、硯なる文を見つけて、「あはれ」と言ひて、門出の所に、
われをのみたのむと言へばゆくすゑの 松の契りも来てこそは見め
となむ。
蜻蛉さんの父・藤原倫寧が陸奥守となって娘の元からさった。父はあとを兼家に託した。蜻蛉さんが落ち込んでいると、兼家さんは上の如くである、「なんでそんなに落ち込んでるの?世間にもよくあることじゃないか。私をたよりにしてない証拠だね」と。何回もフラグをあげまくる蜻蛉さん。上の歌も、「末の松山波を越えなむ」の歌を言いたかっただけちゃうかの巻である。
譬ば恋情の切なるものは能く人を殺すといえることを以て意と為したる小説あらんに、其の本尊たる男女のもの共に浮気の性質にて、末の松山浪越さじとの誓文も悉皆鼻の端の嘘言一時の戯ならんとせんに、末に至って外に仔細もなけれども、只親仁の不承知より手に手を執って淵川に身を沈むるという段に至り、是ではどうやら洒落に命を棄て見る如く聞えて話の条理わからぬ類は、是れ所謂意の発達論理に適わざるものにて、意ありと雖も無に同じ。之を出来損中の出来損とす。
――二葉亭四迷「小説総論」
そりゃそうなんだが、どこで我々が目に見えないものを見るかは、フィクションの結構だけではどうにもならないところがある。この生き死にがかかった御時世、我々の目には自然が生き死にのかかったものとして見えてくる。「城の崎にて」はその意味でそこまで調子に乗った作品ではなかった。人と関係なく咲く桜は美しいし、池の周りをあるく私を全力で追い抜いて駆け抜けていく女子中学生も美しい。池の中では鯉が泳いでいて、上空を鳥が十文字に旋回している。鯉たちも水の中を飛んでいるのである。
我々はといえば、太陽に似て、同じところを登って下がってという人生である。太陽と自然は対立物だ。