正月ばかりに、二三日見えぬほどに、ものへ渡らむとて、「人来ば取らせよ」とて、書きおきたる、
知られねば身をうぐひすのふりいでつつ 鳴きてこそ行け野にも山にも
返りごとあり。
うぐひすのあだにて行かむ山辺にも 鳴く声聞かば尋ねばかりぞ
など言ふうちより、なほもあらぬことありて、春、夏悩み暮らして、八月つごもりに、とかうものしつ。そのほどの心ばへはしも、ねんごろなるやうなりけり。
このやりとりで、兼家がやる気がないのが明らかであるが、蜻蛉さんは「ねんごろなるやうなりけり」と殊更フラグをさっさかと挙げている。フラグを挙げるためなら出産もしてしまう。さすがである。
元来、われわれはそこまで我慢して小さいことを実現するの?という行動をとることがある。普段からコスパが悪いとかよいとか言っている連中はかならずそうなっているのが笑わせる。
コンプレックスの塊の連中に限って、危機に乗じて旗を振りたがる。コンプレックスが孤独を選ばないのが不思議でたまらないが、――コロナとはほぼ科学のことになりつつあり、コロナをエビデンスにしていれば何を言ってもよい感じがあるんで、むしろコミュニケーションに打って出る人間が案外多いのが面白い。面白いのは、感染のクラスターが人間によって発生することが明らかになって、群れる人間たちを分断し始めたことである。群れは、個体以上のシンクロ(感染力)を生む。自然が個体を越えた力を許さないのではなく、個体以上の感染力がコロナに変換されたのである。コロナとインターネットの力が似ているのは当たり前であり、これはほとんど同じものだ。
わたくしは、孤独を好むから最近の事態を恐ろしいことにちょっと愉快に感じるのも事実である。と同時に、ついにインターネットがリアルワールドで作動し始めたかとも思われて恐ろしいとも思う。――このような事態では、より分断された個人が今まであった力を発揮しようと思ってテロリズム的に振る舞うようになるであろう。引きこもりを好む心象とそれは裏腹である。彼らをあまり責めることは出来ない。我々は、各人が、コミュニケーションを擬態していた段階から抜け出し、個人の感情にようやく目覚めたとも言えるからである。
しかし、その感情が、なんだか自分を虐げてきた敵を倒すみたいな抽象性を帯びている限り、それはひどい事態を導くであろう。我々はおそらく、新しいトーテミズムを求められている時代に入ったのである。とりあえず、自らの鳥居にトーテムを書き入れる勇気を持つことが必要だ。
自分は透き徹るほど深く見えるこの黒眼の色沢を眺めて、これでも死ぬのかと思った。それで、ねんごろに枕の傍へ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。すると女は黒い眼を眠そうにみひらいたまま、やっぱり静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云った。[…]すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。そこへ遥の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。
――「第一夜」
漱石は真っ白な百合をだじゃれに使っている場合ではなく、百合に自分の顔を描き、猫の顔をその上に載せるべきであった。