★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

あらしのみふくめるやどにはなすすき

2020-04-25 23:33:14 | 文学


いかなるをりにかあらん、文ぞある。「まゐり来ほしけれどつつましうてなん。たしかに来とあらば、おづおづも」とあり。


今も昔もクズの特徴である、「だったら強制してくれよ」といういいわけである。最近も、だったらちゃんと命令してもらいたい、みたいなことを口々に言うおたんちんが繁茂しているが、自分のことを自分で決定出来ずに、それを権力に預ける輩であって、――彼らは従順ではなくて、むしろ自分のことしか考えていないので自分の欲望に叛することは命じられることを望んでいる。むしろ自己否定が出来なくなっていることがファシズム化を呼び寄せるのである。

あらしのみふくめるやどにはなすすき ほにいでたりとかひやなからん

これは、ボンクラが、「ほにいでばまづなびきなんはなすすき こちてふかぜのふかむまにまに」とまた、――「だったら強制して風を起こしてくれれば花薄も靡くよ」と植物の頑強な主体性を無視した戯れ言をいうのに対した歌である。曰く「お前の風はひどい嵐で、花薄が出たらいつもひどい目に遭っているんですわ、そんな私が来て下さいとか言ったところでかいなんかありますかっ。」と。

そうだそうだ。ユンガーではないが「鋼鉄の嵐の中」にいるのがわれわれであって、変に塹壕から頭を出してみろ、球が飛んでくるというものだ。コロナ防御で本来の仕事に過剰に目覚めた国家をはじめ、何かに目覚め、その実欲望の一貫性を認識出来ない輩が、世直しのために興奮して出てくる嵐の時代がこれからやってくる。

「大都市は墓地です。人間はそこには生活していないのです。」
 これは日ごろ私の胸を往ったり来たりする、あるすぐれた芸術家の言葉だ。あの子供らのよく遊びに行った島津山の上から、芝麻布方面に連なり続く人家の屋根を望んだ時のかつての自分の心持ちをも思い合わせ、私はそういう自分自身の立つ位置さえもが――あの芸術家の言い草ではないが、いつのまにか墓地のような気のして来たことを胸に浮かべてみた。過ぐる七年のさびしい嵐は、それほど私の生活を行き詰まったものとした。
 私が見直そうと思って来たのも、その墓地だ。そして、その墓地から起き上がる時が、どうやら、自分のようなものにもやって来たかのように思われた。その時になって見ると、「父は父、子は子」でなく、「自分は自分、子供は子供ら」でもなく、ほんとうに「私たち」への道が見えはじめた。


――藤村「嵐」


藤村は、どうしても最後にいい子ぶる癖が抜けなかった。「夜明け前」ではかなり踏ん張ったが、彼は嵐の中に亡くなった。