★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

またも恋ふる力にせむ、となるべし

2020-11-27 23:58:15 | 文学


京の近づく喜びのあまりに、ある童のよめる歌、
祈り来る風間と思ふをあやなくもかもめさえだに波と見ゆらむ
といひて行くあいだに、石津といふところの松原おもしろくて、浜辺遠し。また、住吉のわたりを漕ぎ行く。ある人のよめる歌、
今見てぞ身をば知りぬる住江の松より先にわれは経にけり
ここに、昔へ人の母、一日片時も忘れねばよめる、
住江に船さし寄せよ忘草しるしありやと摘みて行くべく
となむ。うつたへに忘れなむとにはあらで、恋しき心地、しばしやすめて、またも恋ふる力にせむ、となるべし。


土佐日記というのは、土佐から京都への旅であって、その逆ではない。わたくしは、その逆でもよかったと思うのであるが、この作品が亡き娘のことをうたうことが目当てであったと思われる以上、無理からぬところだと思うのであるが――。我々は、既に起こってしまったことに対しては想像力が働くのに、その逆がないのが不思議と言えば不思議である。マーラーなんか、自分の娘の死を曲で予言しているし、自分の葬式を第一交響曲からすでにやっているといえないことはない。この未来の死に突き進む潔さが彼の曲のサスペンスと底抜けの明るさの秘密であるような気がする。

上の三つの歌なんか、最後の歌に向かって、子ども、老い、という時間をわざわざ配置して、未来に延び即ち過去に帰って行く、亡き娘を「恋ふる力」を増幅している。これはサスペンスにはなりようがない。

うちどよみまた鳥啼けば
いよいよに君ぞ恋しき
野はさらに雲の影して
松の風日に鳴るものを


――宮澤賢治「丘」


宮澤賢治は珍しく未来に延びる時間を作り出す人であった。あまりに不幸すぎたのか、自然の寿命が彼より長いことが分かっていたからなのか……

思うに、出来の悪い子どもや親を抱えて生きる抱く愛に比べれば、亡き子への慕情なんて深みを増すことはない。我々の先祖達は、あまりに短命であり、亡くした人間を抱えて生きる時間が長かったのかもしれない。これからの我々は、そんなふうにはいかない。未来に延びる葛藤が愛情におり曲がる時間を生きるしかないのであった。