風の吹くことやまねば、岸の波立ち返る。これにつけてよめる歌、
緒を撚りてかひなきものは落ちつもる涙の玉を貫かぬなりけり
かくて、今日暮れぬ。
四日。梶取、「今日、風、雲の気色はなはだ悪し」といひて、船出ださずなりぬ。しかれども、ひねもすに波風立たず。この梶取は、日もえはからぬかたゐなりけり。
土佐日記というのは、文学史の教科書なんかを見ると、特筆すべきは土佐で死んだ娘を歌った場面で、――といった調子で、いかにドラマチックな日記であろうかと思って読み始めてみると、ほとんど、風で船が進みませんでした、ばかりなのである。ほとんど反物語である。この日など、長旅の涙を糸で貫くことは出来ないね、とかちょっと煮詰まったような歌をしめしたあと、「梶取は天気を予想できぬ馬鹿野郎だ!!」とついにキレてしまった。あるいみ、この場面が日記のクライマックスなのではあるまいか。
わが行手こそ闇なれ、真冬なれ、
あまたの児を伴れし乞丐(かたゐ)の孤独なれ。
苦痛へ、苦痛へ、氷の路へ…………
「生」の嵐は無残の爪を垂れて我に掴みかかる。
[…]
我は知る、この檻の家を出づる期なきを、
また知る、孤独は我が純清の「真」を汚さざるを。
なつかしきかな、狭く、つめたき鉄の家よ、
借物ならぬ我力もて、我はここに妄動す。
――與謝野寛「妄動」
もっとも、同じかたゐでも、こっちの方がある意味でコワイ。情を抽象化すると碌なことが起こらない気がする訳である。