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「いかがはせむ。」とて、「眼もこそ二つあれ、ただ一つある鏡を奉る。」とて、海にうちはめつれば、口惜し。されば、うちつけに、海は鏡の面のごとなりぬれば、ある人の詠める歌、
ちはやぶる神の心を荒るる海に鏡を入れてかつ見つるかな
いたく、住江、忘れ草、岸の姫松などいふ神にはあらずかし。目もうつらうつら、鏡に神の心をこそは見つれ。楫取りの心は、神の御心なりけり。
幣をいれてもおさまらないので鏡を投げ込んだら鎮まった海である。これは「かがみ」から「楫(か字)」を「取」ったら「神」だったという洒落であるという説まであるらしいが、――とにかく、住吉明神もなんだか馬鹿にされているものである。たぶん、この逆恨みで、源氏を……
すると娘は、こうしておかあさんにお目にかかっているのだといいました。そしておかあさんは死んでも、やはりこの鏡の中にいらしって、いつでも会いたい時には、これを見れば会えるといって、この鏡をおかあさんが下さったのだと話しました。おとうさんはいよいよふしぎに思って、
「どれ、お見せ。」
といいながら、娘のうしろからのぞきますと、そこには若い時のおかあさんそっくりの娘の顔がうつりました。
「ああ、それはお前の姿だよ。お前は小さい時からおかあさんによく似ていたから、おかあさんはちっとでもお前の心を慰めるために、そうおっしゃったのだ。お前は自分の姿をおかあさんだと思って、これまでながめてよろこんでいたのだよ。」
こうおとうさんはいいながら、しおらしい娘の心がかわいそうになりました。
するとその時まで次の間で様子を見ていた、こんどのおかあさんが入って来て、娘の手を固く握りしめながら、
「これですっかり分かりました。何というやさしい心でしょう。それを疑ったのはすまなかった。」
といいながら、涙をこぼしました。娘はうつむきながら、小声で、
「おとうさんにも、おかあさんにも、よけいな御心配をかけてすみませんでした。」
といいました。
――楠山正雄「松山鏡」
鏡への欲望は案外すごく、近代では、地獄のような世界まであらわれる(江戸川乱歩)。とりあえず、そんな下々の欲望を抑えるために、我々の先祖達は、とりあえず神の座に置いとくという手段に出たのではあるまいか。どうでもいいが――、今日は、『発達障害当事者研究』を読んだから、近代の難しさを改めて感じた次第だ。