かの船酔ひの淡路の島の大御、みやこ近くなりぬといふを喜びて、船底より頭をもたげて、かくぞいへる。
いつしかといぶせかりつる難波潟葦漕ぎ退けて御船来にけり
いと思ひのほかなる人のいへれば、人々あやしがる。これが中に、心地悩む船君、いたくめでて、「船酔ひし給べりし御顔には、似ずもあるかな」と、いひける。
船酔いで参っていた老女でもいきなり歌を詠み始める。仮名序の生きとし生けるものの歌とは、別にみんな違ってみんないいみたいな視点ではなく、酔って頭がふらふらでも感情があればいきなり歌が出てくるみたいな、我々の生の様相のことかも知れない。
残念ながら、我々のほとんどは、生きとし生けるものであることを辞めてしまったらしく、まったく歌は出てこない。歌ではなく愚痴みたいなものなら出てくる。土佐日記でも、歌が律儀に生産されている一方で、愚痴も様々にあって、拮抗している。貫之がそんな我々の様子を歌以上に面白がっていたことに疑問の余地はない。シランけど。このまえ「梅暦」を少し読んだが、最初から米八と丹次郎がしゃべりつづける。近代を用意したのは、この愚痴だ。
お山の大将はお山の大将、卑屈は卑屈。争われない。だから孔子や釈迦や基督の顔がどんなに美しいものであったかという事だけは想像が出来る。言う迄もなく顔の美しさは容色の美しさではない。容色だけ一寸美しく見える事もあるが、真に内から美しいのか、偶然目鼻立が好いのかはすぐ露れる。世間並に言って醜悪な顔立に何とも言えない美しさが出て居たり、弁天様のような顔に卑しいものが出て居たり、万人万様で、結局「思無邪」の顔が一番ありがたい。自分なども自画像を描く度にまだだなあと思う。顔の事を考えると神様の前へ立つようで恐ろしくもあり又一切自分を投出してしまうより為方のない心安さも感じられる。
――高村光太郎「顔」
高村光太郎は、なぜ「御顔には、似ずもあるかな」ですますことが出来ないのであろう。