青海原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも
とぞ詠めりける。かの国人、聞き知るまじく思ほえたれども、言の心を男文字に、さまを書き出だして、ここの言葉伝へたる人に言ひ知らせければ、心をや聞き得たりけむ、いと思ひのほかになむ愛でける。唐土とこの国とは、言異なるものなれど、月の影は同じことなるべければ、人の心も同じことにやあらむ。さて、今、そのかみを思ひやりて、ある人の詠める歌、
都にて山の端に見し月なれど 波より出でて波にこそ入れ
阿倍仲麻呂の歌。このエピソードはとても興味深くて、漢文に飜訳して中国の人に伝えたら褒められた。その理由が重要で、「月の光は同じはずなので、人の心も同じなんでしょうね」ということだ。これを、月の光に感動する心は一緒なんだね、と言ってしまわないで、月の光が同じなんだから心が一緒なんだという言い方が重要である。
この前、授業の準備で少しビートルズを聴いたが、ビートルズを聴くことは、月の光を見るようなものだ。彼らが全世界に広まった理由は、彼らが同じビートルズだからなのである。
ただ、30分の演奏がおわり、アンコールもなく、出てゆけがしに扱われて退場する際、2人の少女が、まだ客席に泣いていて、腰が抜けたように、どうしても立ち上がれないのを見たときには、痛切な不気味さが私の心をうった。そんなに泣くほどのことは、何一つなかったのを、私は知っているからである。虚像というものはおそろしい。
――三島由紀夫「ビートルズ見物記」
三島はビートルズが月であることを知っていた。だから「虚像」だと言っているのである。彼が、最後に虚像に命を賭けたことは周知の通りである。