三十日。雨風吹かず。海賊は、夜歩きせざなりと聞きて、夜中ばかりに船を出だして、阿波の水門をわたる。夜中なれば、西東も見えず。男、女、からく神仏を祈りてこの水門をわたりぬ。
わたくしなど、まったく波が立っていない瀬戸内海の浜辺でさえ怖ろしいのだから、暗中で鳴門海峡を進むとは怖ろしすぎる。それにしても、大事な役人のおなりというに、こんな危険な道中なのだ。最近の地方派遣の役人達のあれは、こういうあれがないからではなかろうか。
岸に近く、船宿の白い行灯をうつし、銀の葉うらを翻す柳をうつし、また水門にせかれては三味線の音のぬるむ昼すぎを、紅芙蓉の花になげきながら、気のよわい家鴨の羽にみだされて、人けのない廚の下を静かに光りながら流れるのも、その重々しい水の色に言うべからざる温情を蔵していた。たとえ、両国橋、新大橋、永代橋と、河口に近づくに従って、川の水は、著しく暖潮の深藍色を交えながら、騒音と煙塵とにみちた空気の下に、白くただれた目をぎらぎらとブリキのように反射して、石炭を積んだ達磨船や白ペンキのはげた古風な汽船をものうげにゆすぶっているにしても、自然の呼吸と人間の呼吸とが落ち合って、いつの間にか融合した都会の水の色の暖かさは、容易に消えてしまうものではない。
――芥川龍之介「大川の水」
おれはこういう融合だかもわからないのだ。