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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

2020-11-19 23:08:07 | 文学


おもしろきところに船を寄せて、「ここやいどこ」と、問ひければ、「土佐の泊」といひけり。昔、土佐といひけるところに住みける女、この船にまじれりけり。そがいひけらく、「昔、しばしありしところのなくひにぞあなる。あはれ」といひて、詠める歌、
年ごろを住しところの名にし負へば来寄る波をもあはれとぞ見る
とぞいへる。


「来寄る波をもあはれとぞ見る」という気持ちが分かるようになるためには時間が必要だ。だいたいノスタルジーみたいなものだけでなく、主観を共有していた人物との死別や離別などによって、自分の主観が単一でなく、複数で成り立っていたことに気付くところからそんな気持ちが発見されるのである。われわれはさまざまなものに別れた人の姿を見るであろう。――だから、本当は名前が昔すんでいた「土佐」とおなじだからといって、かような、物についた感情が出てくるはずはないと思うのだが、それほど土地の名はいまでいう主観のような物だったかも知れない。

そこで一方にかうした離別を強行した私は、他方の娘に對しても甘い考へを持つ譯に行きませんでした。わたしはここで一切の過去から斷ち離されて、眞に新しい生活に入らねばならぬと考へました。しかし、それは理性で靜かに考へる時の心のさまであつて、物に觸れ、ことに感じては、身も心も狂ひなやまざるを得ませんでした。かうして私が狂ふさまを見ては、母になつた彼の女も些か私の行動にあきれた樣子でありました。そして突然福田家から姿を消してしまひました。彼女に對する愛情が私にないものと感じたのかも知れません。それも彼女としては無理ではなかつたのです。私が心身を狂はした眞情を察することは、彼女にとつては不可能であつたのです。
 一波は萬波を呼ぶ。一つの波が消え靜まつたと思ふと、そのあとは幾つもの波が起つてゐました。犯した罪から免がれようとする私はそのために悶え狂つて、どこにでも慰安を求めようとする。急の夕立に追ひまくられて、どんな木蔭、どんな軒端をも頼みにして驅けるやうに、少しでもやさしい異性を見ると、すぐにそれに近づくやうになりました。


――石川三四郎「波」


ここでは波は心理の別名に過ぎないような気がするが、はたしてそうか。我々は浪漫を感じるときには、実際に少しは胸中に波を発生させている。