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あしびきの山時鳥深山出でて 夜ぶかき月の影に鳴くなり
この歌は、古今集の「五月雨に物思ひをれば時鳥夜深く鳴きていづち行くらむ」といったメランコリーからの解放みたいなものであろうが、時鳥にメランコリックなものがくっついているから意味をもつのではなかろうか。そこには死からの解放がある。
わたしは食べる行為に対するなんとなくの嫌悪感があるので思うのかもしれないし、非常に危険な考えだとは思うが、飽食が日本人の魂を堕落させたことは確かな気がする。たいしたことしてないくせに食べ物の評論しているやつは大嫌いである。かつて戦後の飽食には、餓えと死の影が纏わり付いていた。それを心理的に消すためにも我々の先輩たちは食べなくてはならなかった。しかし、そうでない場合の飽食は生の暴走でしかない。
正月と言うこともあるが、テレビをみると、食ってばっかりいる。もの食えない人のこともそろそろ考えるべきだと思うんだがな、テレビ。どんな気持ちになると思ってんだ。。。
わたしが食べることになんとなく嫌悪感があるのは、昨日、おせちを見てて思ったのだが、――これやっぱり屍体の山だからだよな。。。死を摂取しているのだ。
芸術や思想が、死への欲望に導かれているのは明らかだ。それらが生の暴走と屡々衝突する。どういうことかといえば、小説などでいろいろなゴミクズ野郎に出会っても、現実のゴミクズの存在感にはかなわないという、そういう意味だ。ときどきそういう感じとは違う事態に出会ってびっくりすることもあるが、滅多にない。下のようなケースである。
ある寺の奥さんが非常に高徳な上人のお話で、お浄土といふよいところがあつて死ねばそこへ行けると聞き、すぐに信じ切つてさつさく自殺しようとしたといふ。私はこれを聞いて、信じるといふことを初めて教へてもらつたやうな深い感銘にすつかり打たれてしまつた。
――岡潔「日本的情緒」
大学生の頃、和歌をこそこそつくっていた時期があった。今考えてみると、――結局和歌からの落ちこぼれというか失恋というかがなにか自分をつくっている気がして、「歌のわかれ」をとても重要視している中野重治は、フラれたのではなく別れなんだといっているところがある意味スゴイと思うのだ。死から生を探す、――左翼の人たちはこうでなくてはならぬ。
その点、三木清なんか微妙なところがある。彼の修辞学は死の影をあまりにはやく消してしまう。
川端康成なんか、あまりに芸術を死のように愛していたのか、「末期の眼」とか言ってしまったわけだが、それは自分の主観を信じるということであった。人は作品を楽しむと簡単に言うが、その楽しむ主体がどれだけのことを認識しているのかは誰も分からない。結局楽しんでない人間よりも多くを認識している気がするのである。だから私は学者についても、世の中がおもしろくなくかつ冷静なタイプにはあまり期待できないと思っている。分野にもよるのであろうが。楽しむ暇もなく論文を書かせるのは、書類作成としての研究にはいいかもしれないが、いずれ続かなくなるに決まっている。主観と客観とかあまりいいたくないが、主観の方が広いわけである。そこを信じられないタイプは知的活動をやればやるほど認識が「客観」的に細ってゆく。当たり前のことですがな
わたしの知り合いに、学級崩壊したり荒れた学校に進んで赴任したがり、かつ学校を制圧し?静かにして去って行く教師がいて(もう引退したけど)、たぶんそういう状況が好きなのではないかと思う。そしてその精神状況がますます多くのものを見せるのである。客観的に子どもをみても視野が客観的に狭まっている限り全く意味がない。言うまでもなく、「熱血」とかいうものもその客観性に過ぎない。