
濡れて折る袖の月影ふけにけり 籬の菊の花の上の露
よくわからんが、菊の花の上の露が菊を折った袖に移ったのだがその露の表面に月が映っているのをみて夜が更けましたなあ、とは幕の内弁当みたいに頑張ってる視点といへよう。普通に月を見りゃいいに。。。
「濡れつつぞしひて折りつる年の内に春はいくかもあらじと思へば」(在原業平)を受けての歌なのであろうが、業平が「濡れつつぞしいて折りつる」と感情的に動作を描いているのに、実朝は「濡れて折るっ」とばかりに棒読みである。これは動作ではなく内面の何かだからである。
ふじ子は白い蚊帳のなかへはいつて、肌ぬぎになると、濡れ手拭で、胸や腕をきしきしこすつた。汚れた蚊帳は、ところどころ小さい穴があいてゐる。ちづ子は、鼻の頭にいつぱい汗をためてよく眠つてゐた。
「お母さん、こゝは何處なの?」
「どこでもいゝぢやアないの、さつさと食べて頂戴」
「僕、お水がのみたいなア」
「いけません、こんな處にお水なンてありませんよ、その、おうどんのおつゆをすゝつておいたら‥‥」
「だつて、しよつぱいンだもの‥‥」
――林芙美子「濡れた葦」
いくら作者がわがままな人であろうとも、つねに他人の動作に注がれている作家の目の方は、きょろきょろと動き出すものである。自分のことしか考えないとはどういうことか、我々はよく分からなくなっている。
「ゴッドファーザー」を昔見たときになんとなく好感が持てたのがトム・ヘイゲンだったので、おれはやっぱり尻ぬいぐい役の味方が理想なんだなと思った。わたしのようなタイプはヒーローに興奮する輩と同じくらいいると思う。いい映画や作品はかならずこういう尻ぬぐい役の生き方まで描いているんじゃないかなと思う。
他人のことを考えて生きないと内発的にはなれないのは大人の常識のような気がする。利他とか言うてるのは寧ろ自分に未練がありすぎでしょ。。。