★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

伏石神社に初詣する(香川の神社2-10)

2022-01-03 23:05:37 | 神社仏閣


初詣です



かわいいと思う(細君は、なんか四角っぽくない?と言った)



忠魂碑。側には、大きい顕彰碑があるが、これは東京オリンピックのときに建てられたものである。1964年のそれは近代の戦争(碑ではだいたい「戦役」という)を平和に貢献?あるいは向かうものとして総括する意味があった(というか、そういう意味を付す絶好の機会であった)。ここにルサンチマンを見るのは容易であるが、敗戦というものは常に否認されるものであるとも言えるし、国家の側からするとそれを否認と意識せずに揚棄してしまうものが必要だともいえ、――碑を残すことで戦死者と一緒に自分達も一緒に葬られようとする意識が働いているのかもしれない。つまり、戦後の経済成長とは、不発であった一億総自決を前提としていたかのようだとも思えるのである。こういう碑が存在を許されているのは神社であり、意志としての死が生であるような曖昧さが許される場所であった。外部の世界は、曲がりなりにも「生きよ墜ちよ」の世界になってしまったからである。

この前のオリンピックはそういう側面がなかった。一応、はじめは震災の総括を試みて、似たような空気をつくろうと頑張ったが、震災には原発事故がくっついていて簡単にはいかなかった。敗戦というのは、自分自身のみでは不可能である。死んでいるのか生きているのかわからない情況では、生きているのか死んでいるのか分からない行事が生成されるわけで、コロナのせいにできるのは単なる幸運である。この神社の新築を説明した碑には、新型コロナ対策緊急事態宣言の中棟上げしたと書いてあって、なかなかかっこがよかった。