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くろ木もて君がつくれる宿なれば 万代ふともふりずもあらなん
この黒木は大嘗会のときに作られる宮のことらしいのであるが、そんな馬鹿な、万代も持つわけないじゃないかと思うし、その通りではあるが、――天皇というのはいわばゴジラのようなものであって、何回も作られながら、仮想・ゴジラ的事実を再生産するものである。最近、ラトゥールの『近代の〈物神事実〉崇拝について』を読み直したが、それは物神事実みたいなものなのかもしれない。(前に論文にも一部書いたが。。)
最近、「ゴジラS.P」という作品をみたが、ゴジラの起源を原爆から引きはがそうとしていた。しかし、原爆が「科学」によって引きおこされているという「事実」をより強調することにもなっていた。その意味で、ゴジラの物神事実的な歴史をより強力に推進するものであった。
そういえば、水島新司氏が亡くなった。氏がつくった野球漫画は「巨人の星」や「アストロ球団」などと違い、野球が人生や革命に比される娯楽であることを超えて、現実まがいに接近していった。「ドカベン」の明訓高校が強すぎて、現実の甲子園大会がつまらないとか、山田太郎(ドカベン)にそっくりだから香川選手をドカベンと呼んでしまうとか、あぶさんの2000本安打記念を現実のダイエーが行うとか。。「野球狂の詩」は、その前半ではほとんど講談とか浪曲の世界であったが、後半、女性のプロ野球選手が登場すると同時に野村や江夏がそれを合理化して現実に架橋して行く――そんな作品であった。
それは架橋では終わらない。それどころか、現実に影響を与えていて、――そもそも全国の野球少年たちはドカベンを模倣して野球を始めている節があったわけだ。因果関係はないが、作中の義経や球道が甲子園で投げる160キロが、いま普通に現実で起こっているのは、どうみても人々がそれを期待していたからである。(スピードガンがむかしよりはやい表示が出るように改良されているという噂があるが、その噂をふくめて、期待の存在を示してる)
望むから人間に関する出来事は起こる。
そうでないのは、先日の海底火山の爆発みたいなものである。
また、作品のなかで語られない事実みたいなものは、あまり事実物神化を起こさないようだ。わたくしがもっているドカベンのDVDは某国のものゆえ「大飯桶」って書いてある。そういえば、この作品は貧困と食糧事情の話だったなとあらためて気付くわけであった。ドカベンの持ってくる巨大なうめぼし弁当は、山田の家の経済事情も示していて、岩鬼と山田の体格の違いは、食生活の豊かさとも関係があったのかもしれない。ドカベンのライバルに雲竜という巨人がいる。彼が小学生時代に山田に相撲大会の決勝で負けて、賞品のお米を貰い損ねたエピソードがあって、その後相撲部屋の師匠に預けられた雲龍が食べまくって巨体となり、山田に野球で負けて減量してまた山田に挑む。こういうお話は印象に残る。「大甲子園」でも、山田に簡単にホームランを打たれた沖縄の選手が、山田のプロとの契約金について、おれたちは食うお金すらも大変なのにこいつらは、とか呟く場面もあった。
今日、授業で耽美派を扱ったが、――象徴派が貧困なども美として扱ってしまったことが、20世紀の終わり頃までは我々の社会にも効いていたのかも知れない、と思った。