★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

心ひとつといかが頼まむ

2022-02-02 23:43:07 | 文学


沖つ波八十島かけて住む千鳥 心ひとつといかが頼まむ

これは恋の歌なのであろう。多くの島を心にかけて住んでいる千鳥のようなお前を、心を一つとはみなせないんだよコラッ、という感じだ。もっとも、我々の心はもともと浮気で、波や島々の表象に目移りして過ぎて行く。山国の人間だって、本当は富士山よりも八ヶ岳が好きなのである。

我々は、物象一つ一つに対して優しくない。多様性とかなんとか言って、心一つを護ることができない。三島由紀夫の言うように、リシュリーや天皇がいないと、方向性なんかないのが我々の文化である可能性はたしかにある。石原慎太郎なんか、「みんな違ってみんないい」的な思想のバリエーションなのである。

昭和四十四年頃、政治家になったばかりの石原慎太郎と三島由紀夫は月刊ペンで対談している。石原は、大事なのは個人で、天皇制を守る必要はない、システムはもともと仮象で、――みたいな主張をして三島と対立していた。石原に対して、お前の考えは戦争の時の本土決戦の思想で、それでも日本の文化は残ると思っているだろうがそんなことはないと三島は言う。三島にとって、日本の文化はパーソナルなものではなく、それが文化であることを辛うじて保つために天皇が扇のかなめであるに過ぎないがゆえに、代替可能なものではない。石原にとっておそらく文化はすごく実存的なというか個人的な自由を本質的であると思うことに依存している。

だから、石原には日本のいろいろな制度や何やらを破壊しても個人があればいいんだみたいなところがあった。で、石原にとっては、自分に比べれば他人も仮象みたいに見えるところがあったのかもしれない。この危険性を察知して三島は「お前も仮象になりかかってるじゃないか」とか確か言ってたと思う。

この自我主義者=石原のような、まわりのモノに対する鈍感さを持っていなかった三島は、受験戦士以上に、まわりに負けるかみたいな野放図な文化的精神の持ち主で、仮象の天皇ぐらいもってこないと自我が持たない。高峰秀子様はたしか三島由紀夫との対談のなかで、わたしは嫉妬深いので浮気したら硫酸ぶっかけるみたいなことを言ってた。三島は、戦後派や石原だけでなく、こういうまわりの過激な人に対抗して頑張りすぎたところがある。

石原に限らず、日本人が何がつまらないかというと、カーゲルのティンパニ協奏曲のように、最後に頭からテンパニに突っ込んで聴衆に暖かい笑いをとるんじゃなくて、若者が恥部を障子に突っ込んだぐらいのことでNOと言えるとかなんとか言っているところだ。このようなモノに対する鈍感さと自我があることが常に錯覚される。伝統を大事にしているのが日本人というわけではなく、伝統なんかよりも目の前にある軽薄な自我主義が好きなのがわれわれである。

わたしも若い頃は、勇気のあるマイノリティだけが次の世を担うのだと思っていたが、――そうでもなく、たいがい勇気のない自我主義の多様なマジョリティが生きて死んで行くだけなのが我が国である。勇気はテキストをはじめとする死人に宿って蘇生するだけである。