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文の起こり必ず由あり、天朗らかなる時は即ち象を垂る、人感ずるときは即ち筆を含む。是の故に、鱗卦・聃篇・周詩、楚賦、中に動いて紙に書す。凡聖貫殊に、古今時異なりと云うと雖も、人の憤りを写す。何ぞ志を言わざらん。
さすが空海、いまの大学生ぐらいの歳のくせに、感じる即ち書いてしまうぞ、と言っているばかりか、それを天の様子、垂象とおなじようなもんだといい、――よくわからんが、あたかも空海が「天朗らかなる」感じの人物に思えてきてしまう訳である。志を言うというのは、中国的というべきなのかわからないが、とにかく、今日は天気がいいよねとかいうてお散歩している我々とは全然迫力が違う。
たしか島崎藤村が「緑葉集」のなかで「人生は大いなる戦いである」と言っていたが、なにか師匠の透谷と違い、この人の戦いは「人生」という枠がはまっている気がする。それはそれで実験的であると思うのだが、上の空海みたいなとんでもない思い上がりは消えている。芥川龍之介も「或る阿呆の一生」と言っていて、そこにも人生があった。芥川龍之介がそれを戦いだと思っていたことは、その「刃のこぼれてしまつた、細い剣を杖にしながら」という末尾に現れている。
人生が戦いなら、負けるしかない。勝てば、生き続けなければならなくなり、それはもはや
戦争は人生ではないし、人生は戦争ではないのである。
戦時中の小林秀雄が神皇正統記ほめてたんで、昨日から大急ぎで読み直しているのだが、――私の机の近くにあったのが、小林一郎講述の昭和一七年の皇国精神講座のやつだったんで、一郎氏の丁寧なんだか高圧的なんだかわかんない口調が面白くて本文が頭に入らない。。。とはいえ、このような口調はまさに私を滅したところにあったわけで、人生も無けりゃ私もない、というところが、――我々が危機に瀕すると、こういう滅私奉公か、右顧左眄的計画的撤退しかなくなるのはいつものことであると言わざるを得ない。そもそも、空海の言う「文の起こり必ず由あり」とは本当であろうか。むかしはそうだったかもしれないが、いまや別に何も由が無いからこそ文が起こっているやつがほとんどではないか。