
くれなゐの千入のまふり 山の端に日の入るときの空にぞありける
これは、吉本隆明が実朝論で評価している歌で、萬葉集の「くれなゐの濃染のころも色深く染みにしかばか忘れかねつる」の本歌取りとみなしている。
本歌とくらべて特色がはっきりと出ていて、しかもみくらべて劣るところはない。山の端に入りかける真赤な濃い夕日の色をみて、古代のくれない染めの、繰返し浸しては振った千入染めの色のようだな、とおもったそれだけのことであるが、「日の入るときの空にぞありける」という表現は、ただ<そういう空だな>といっているだけで、しかも無限に浸みこんでゆく<心>を写しとっている。この<心>は、けっして<忘れかねつる>という『万葉』の恋歌の恋しさの単純さとは似ていない。<事実>を叙景しているだけの実朝の歌のほうが、複雑なこころの動きを<事実>として採りだしている孤独な心が、浸みとおっているようにみえる。これが実朝のおかれた環境であったといえばいえるのである。
いいたいことは分かるんだが、吉本の常で、「無限に浸みこんでゆく〈心〉」というのが、何がどこに、ということを書いていないところに含蓄がある。吉本の〈心〉は、叙景にも孤独な心にも属していないのである。その両方に染みこんで相渉っているのがそれであって、その区別がつかなさを「無限」と言っており、だからそれを吉本はかえって漠然と「実朝の置かれた環境」と言うことが出来る。
ただし、わたしはここに「孤独」を読むのはある種の常識的見解に過ぎないような気がする。吉本に対する隔靴掻痒なところは、その常識の根拠を吉本の理由として探すしかないところである。だったら、むしろ万葉の歌の方がはっきり気持ちを言ってくれて他人としては助かるのであった。あるいは、〈心〉といわずに歌ったほうがよいかもしれない。音楽として。
Heiner Goebbels - Surrogate for Piano,Percussion & Voice