★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

君が代に、上を向いて月を見る

2022-02-22 23:56:45 | 文学


君が代になほ永らへて月清み秋のみ空の影を待たなむ


後鳥羽院の御代、それがこれからも永らえてゆくから、月の清らかな秋空のの光のようなそれを待とうじゃないか、という。この月はどのように見えていたのであろう。我々はつい比喩とか簡単にいってしまうが、実際に月が見えているその見え方が問題だ。

今写真やテレビがすごく細かくきれいに映ってるために、われわれまでなんか物の見え方が細かくなってるんじゃないかな。なんかもっとおおざっぱな見え方してたと思うんだが。わからない。

下村寅太郎編の『西田幾多郎――同時代の記録』はなんか癒し系?なので、寝床の横に置いてあるんだが、娘の梅子さんとその夫金子武蔵の文章が好きだ。武蔵は、西田は漱石が嫌いだった、話すとまわりの悪口ばっかり言うてた、など言いたい放題だし、――梅子さんも父の文章は見ただけで頭が痛くなるみんな応接間の飾りにしてるんだろう、父は猫とは話すが私と話さない、内村鑑三の弟子に心酔していると「女の子にちやほやされるものにろくなものはおらん」と言い腐ったなどと、言っている。つまり何が言いたいかというと、ある意味、身内というのは悪口が言えるのであって、信者や弟子だけに立派な追悼されている人は駄目だなあということだ。いま梅子さんの文章読み直したら、自分の結婚についてさらっと「風采の上がらない金子に私が飛びつくはずはなく」、父が喜んでるんで同意したんだ、と書いてあった。西田だけでなく夫の悪口まで書いてしまう梅子様。

人間の見え方は、やはり――近くでないとその性格は自覚されない。言語がとびかいそれがパワーを持っている様な幻想が広がっている現代では、人間結局接近して見ないと分からない、という自明の理を忘れがちになるのである。

もちろん、本は人間より長生きだ。人間が書いたから忘れがちであるが、こいつは物体であり、土とか空気に近いものなのである。自分の部屋の本の中身をほとんど記憶していたような20代の前半の大青春に比べて、おれが死んだとき本どうしよみたいな心配がでてきた最近は、大蒼然みたいなかんじだ。希望は本はおれよりも長持ちしそうなことだけだ、そんなおれの思いと関係なく本は生きてゆくのである。

結局、そんな人間で無いモノに対しては、それを認識するのがかえって人間を捉えるよりも難しいというのは、人文学者なら知っていることだ。我々は脳が発達しすぎたせいで、その人間ないモノからの認識を狂わせると大変なことになる。

須藤詩登美の『マルクス主義討伐論』は「信濃毎日」に連載されていた。最後は、都市を否定せよ、みたいな主張を展開してる。ほんと、当時のマルクス主義の「転向」とは、思想的転回じゃなくて、こういう違うグループにうつったんだなと思わせる。須藤も自分は解放運動をやってるみたいな口調だし、戦前のいろいろなものを流れる基調は「解放」なんだな。抵抗とかではない。それはともかく、いろいろと調べると、マルクス主義に対する反論を掲げた本は昭和初期にはけっこう出ている。単に官憲が弾圧したんじゃないことは明らかである。

そういう認識の微調整をしながら学徒たちは生きてゆくのだが、――人間に対する認識はお互いに素手で創る彫刻のようなものだ。相手の知能ではなくへたくそな手つきにいらいらしてしまう者である。

というわけで、つい君が代よ、月よ、という風に上を向いてしまうのも人間である。