★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

Das Ewig-Weibliche zieht uns hinan

2022-04-02 23:24:10 | 思想


任心偃臥。遂思。昇降。淡怕無欲。寂寞無声。与天地。以長存。将日月。而久楽。何其優哉。如何其曠矣。東父西母。何足恠乎。是蓋。

天に舞い上がったり下ったり、欲はなく静寂である。天地と同じく長く生き月日とともに楽しむ。何と素晴らしく偉大であろう。東王公や王西母という夫婦の仙人がいるのも当然である。

今日、「クラシックの迷宮」という片山杜秀氏のラジオ番組で、超人の特集をやっていた。ニーチェの影響としてのマーラーやR・シュトラウスの大作を紹介していた。それは人の域を人によって越え出てしまう超人の世界の表現だというのである。それはマーラーの大交響曲の様にキリスト教に由来するものであるようにみえても本質的にもうそうではなくなっており、R・シュトラウスのように風景描写(アルプス交響曲)的であってもそうではなくなっている、という。確かにそうかもしれない。リストやマーラーが宗教色を纏っているが故になんとなく人間の域に止まっている音楽の様にみえるのに対し、シュトラウスの表現は、「2001年宇宙の旅」に使われるように、人間のいない空間に突き抜けているような感じがする。二〇世紀の初頭、マーラーではなくシュトラウスの時代だったのはある意味当然で、それはある種のメカニックな趣を発していた。マーラーが再評価されるのは、もっとあとで、我々が情報空間の中で自らに引きこもる様になってからである。外側に神をつくるのか、内側につくるのかの違いである。

で、片山氏は、シュトラウスの次に「ウルトラマン」の音楽を持ってきていた。ウルトラマンの作曲家たちが、後期ロマン派音楽から直接的に影響を受けていたことは自明だとしても、ウルトラマンのコンセプトそのものに超人の思想の反映があると言われればそれもそうかもしれない。

ところで、マーラーやシュトラウスの描く超人間的で天上的な世界は、東洋ではとっくに仙人が見出していた。マーラーの「大地の歌」はその意味で、オリエンタリズムというより、天上思想への共鳴かも知れない。もっとも、マーラーは第4番をかいたあと、また地上に降りていってごちゃごちゃちゃかちゃかした大交響曲を書かかなければならなかった。これにくらべて、上の仙人先生のなんとあっさりとしたことか。

「おい。おい。左の手を放そうものなら、あの田舎者は落ちてしまうぜ。落ちれば下には石があるし、とても命はありゃしない。」
 医者もとうとう縁先へ、心配そうな顔を出しました。
「あなたの出る幕ではありませんよ。まあ、私に任せて御置きなさい。――さあ、左の手を放すのだよ。」
 権助はその言葉が終らない内に、思い切って左手も放しました。何しろ木の上に登ったまま、両手とも放してしまったのですから、落ちずにいる訣はありません。あっと云う間に権助の体は、権助の着ていた紋附の羽織は、松の梢から離れました。が、離れたと思うと落ちもせずに、不思議にも昼間の中空へ、まるで操り人形のように、ちゃんと立止ったではありませんか?
「どうも難有うございます。おかげ様で私も一人前の仙人になれました。」
 権助は叮嚀に御時宜をすると、静かに青空を踏みながら、だんだん高い雲の中へ昇って行ってしまいました。


――芥川龍之介「仙人」


芥川龍之介はイジワルなので、仙人修行をしにきた若者をこき使った夫婦のうち殺人犯を妻の方におしつけたばかりか、空中にういた彼を「繰り人形」と述べている。まだまだ彼は誰かにこき使われている可能性があるわけである。現代でも、確かに仙人面をしていても誰かに滅私奉公をしている人間は多い。

しかし、私的な欲望に縛られているいじわるな奴らに比べればただの「繰り人形」は、天の「繰り人形」になる可能性があるのであった。のみならず、医者の妻に導かれて主人公が天に昇ったのは、――結果的にであるが、マーラーの8番に使われたゲーテではないが、「Das Ewig-Weibliche zieht uns hinan」(永遠に女性なるもの、我等を引きて往かしむ)になってしまっているのがおもしろい。上の仙人の先生も、性的共同性に守られていたはずの東王公や王西母すら仙人となっていることを付言しているのかも知れなかった。