★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

安有定数

2022-04-23 22:36:57 | 思想


三界無家。六趣不定。或天堂為国。或地獄為家。或為汝妻子。或為汝父母。有波旬為。師有外道為友。餓鬼。禽獣。皆是吾汝。父母妻孥。自始至今。曽無端首。従今至始。安有定数。如環擾々於四生。似輪轟々於六道。汝鬢如雪。未必為兄。吾髪如雲。而亦非弟。是汝与吾。従無始来。更生代死。転変無常。何有決定州県親等。

「或天堂為国。或地獄為家。或為汝妻子。或為汝父母。有波旬為。師有外道為友。餓鬼。禽獣。皆是吾汝。父母妻孥」――あるときは天国が家であり、あるときには地獄が家出ある。あるときにはあなたの妻となり父や母にもなる。魔王を師とし外道も友達となる。ガキや禽獣も我にとってもあなたにとってもこれみな父母であり子である。

三界に家がないみたいなことは、孤独感を合理化するせりふではない。むしろ、ドゥルーズもびっくりの生成変化の様相なのである。輪廻転生は、歴史を見る視点とは違い、もうすでに現在において吾々はいかように関係づけられ名づけられ得る輪廻転生的な実態である。空海が「従今至始。安有定数」といってるのはすごくいいかんじである。われわれは認識を数によって安定させている。自分を一と認識しているから何とかなっているが、二以上と考えると変化などの一を持ってこないと安定出来ない。しかしその変化ですらひとつのものとして認識できるかわからない。われわれは一でもあり多でもあるなかを進んでいる(たぶん)だけなのである。

例えば或聴覚についてこれを鐘声と判じた時は、ただ過去の経験中においてこれが位置を定めたのである。それで、いかなる意識があっても、そが厳密なる統一の状態にある間は、いつでも純粋経験である、即ち単に事実である。これに反し、この統一が破れた時、即ち他との関係に入った時、意味を生じ判断を生ずるのである。我々に直接に現われ来る純粋経験に対し、すぐ過去の意識が働いて来るので、これが現在意識の一部と結合し一部と衝突し、ここに純粋経験の状態が分析せられ破壊せられるようになる。

――「善の研究」


いま気付いたのであるが、西田幾多郎の名前のなかにすでに一則多みたいなニュアンスが統一されている。