
肆力就畝 曽無筋力 扣角將仕 既無甯識
無智在官 致譏空職 有貪素飡 遺誡尸食
濫竽姦行 已尤非直 雅頌美風 但聞周國
彼孔縱聖 栖遑不默 此余太頑 當從何則
欲進無才 將𨓤有逼 進退兩間 何夥歎息
いまでもそうだが、立身出世は親を喜ばしたりするけれども、せいぜい親の気持ちに添うだけのことである。本人がその気になっていればいいが、儒者が説く様な忠孝に値する親玉などめったにいるものではなく、たいがいヤクザか幇間である。こういうやからにも激しいバカ圧力の中で諫めなければならないと命じる儒教は、われわれを殺す気なのか。就職を望む親たちの期待を裏切り出家することは勇気のいることだ。空海のむかしからそうだったのであり、彼だって、上の様な自分があたかも劣等生になったみたいな状態に落とし込まれていたに違いない。いまでも、野望を持ちながら「此余太頑 當從何則」と自分が従う理念と法則を見出せず、「欲進無才 將𨓤有逼 進退兩間 何夥歎息」(使えようとすればそんな才はなく、退いて生きようすれば圧を受ける、進むも退くも地獄で、ため息しかでてこんわ)と思っている大学院生は多い。本当は就職してからも、馬鹿馬鹿しい競争に晒されるから、大して違わないのであるが。
思想や文学の勉強はだいたい自分のしらない昔のことを思い出す作業である。我々の意識のありかたはほとんど進歩などしていない、昔から心と頭のいいやつはいいが、世の中はいつも悲惨で、みたいな身もふたもないことを思い出すことである。そうでないと、我々は自分しか知ることはない。ということは自分が生きてきた時間が成長のように感じられるそのままに、人間も社会も国家も進歩しているとなんとなく考えてしまう。人文系はある意味で時間の流れを消去する残酷さをもつ。しかしそれが上の様な、労働=報恩の地獄からの自由でもある訳である、我々個人にとっても国家にとっても。
それにしても、おれも含めて、空海や古今和歌集、プラトンやヘーゲルなんかのあとによくものを書こうとか思うよな。思い上がりもはなはだしい。我々が学べば学ぶほど、ほとんどのことが言われているようなきがしてくるが、これが人文系の学問の意義なのである。その意味で、わたくしは田島正樹氏の『文学部という冒険』で述べられている、文学部における現在を照らす過去の文脈の発見が政治的闘争としてあるという意見には賛成である。政治的なのは、いわゆるヤクザと幇間の政治は、新たな意味を提示するところにほとんどの精力が傾けられ、古い考えの排斥というかたちをとることが多いからである。
越えて翌月の五日に城攻めに加わった諸侯が、京の二条城に群参した時に、家康は忠直卿の手を取りながら、
「御身が父、秀康世にありしほどは、よく我に忠孝を尽くしてくれたるわ、汝はまたこのたび諸軍に優れし軍忠を現したること、満足の至りじゃ。これによって感状を授けんと思えど、家門の中なればそれにも及ぶまい。わが本統のあらん限り、越前の家また磐石のごとく安泰じゃ」といいながら、秘蔵の初花の茶入を忠直卿に与えた。忠直卿はこの上なき面目を施して、諸大名の列座の中に自分の身の燦として光を放つごとく覚えた。
――菊池寛「忠直卿行状記」
私の見たところ、人間が光ってみえる人間に謙抑的であるやつは居ない。忠直も家康に褒められたから自分が光ってみえたのではなく、普段から自分が蛍みたいに見えているのである。虫はやっぱり人間ではない。