
遂乃砥智慧刀。涌辨才泉。被忍辱介。駕慈悲驥。非疾非徐。入亀毛之陣。不驚不憚。対隠士之旅。於焉。出壘盤桓。入壁跋扈。因茲。先以孔璋檄。示以魯陽書。将帥悚慴。軍士失気。面縛降服。無労血刃。
議論よりも先に文章によってあっさりと儒教先生・道教先生は敗れ去ってしまった。これはとても重要なことだ。議論は人を説得出来ないのである。まずは、文章で一気に勝敗をつけておかなくてはならない。勝敗がついた理由を記述することはできない。その理由が存在しない勢いで行われてしまった決着だからである。思想上の決着は、吾々の下界の因果の世界とは異なる。
いま大河ドラマで鎌倉幕府の成立をやっているが、天皇・平家・源氏ら――すなわち下々の世界は、心理的因果性によってあっちゃこっちゃと動いていると認識する他はなくなっており、そこに世の中の謎はない。謎は、かえってイメージのみを示されることで生じる。仮名乞児は、そのみすぼらしさのイメージを捨て敵陣に堂々と入ってそのまま陣地を制圧するのである。この前の部分にあった様に、悟りの真実智を刀とし、弁舌の泉を沸かしながら、忍辱の鎧を纏い、慈悲の心を早馬としていること事こそが原因であるに過ぎない。それは不思議な謎であるが確実に起こっている事である。
この事は、吾々の心の中にはなく、「孔璋檄。示以魯陽書。将帥悚慴。軍士失気。面縛降服。無労血刃。」といった、書を以て乱暴者を制圧出来た過去の事柄であり、それに反応してしまったわれわれが、仏教の力にそこまでの力を想像してしまう順序によってなりたつ。
もともと吾々の心は、自然に個人の範囲を超える様にはできていないので、外にある主体(オブジェ)に反応するしかないのである。
「諸君、私は誤っていた。私は迷っていたのです。私は今日からビジテリアンになります。いや私は前からビジテリアンだったような気がします。どうもさっきまちがえて異教徒席に座りそのためにあんな反対演説をしたらしいのです。諸君許したまえ。且つ私考えるに本日異教徒席に座った方はみんな私のように席をちがえたのだろうと思う。どうもそうらしい。その証拠には今はみんな信者席に座っている。どうです、前異教徒諸氏そうでしょう。」
私の愕いたことは神学博士をはじめみんな一ぺんに立ちあがって
「そうです。」と答えたことです。
「そうでしょう。して見ると私はいよいよ本心に立ち帰らなければならない。私は或はご承知でしょう、ニュウヨウク座のヒルガードです。今日は私はこのお祭を賑やかにする為に祭司次長から頼まれて一つしばいをやったのです。このわれわれのやった大しばいについて不愉快なお方はどうか祭司次長にその攻撃の矢を向けて下さい。私はごく気の弱い一信者ですから。」
ヒルガードは一礼して脱兎のように壇を下りただ一つあいた席にぴたっと座ってしまいました。
「やられたな、すっかりやられた。」陳氏は笑いころげ哄笑歓呼拍手は祭場も破れるばかりでした。けれども私はあんまりこのあっけなさにぼんやりしてしまいました。あんまりぼんやりしましたので愉快なビジテリアン大祭の幻想はもうこわれました。どうかあとの所はみなさんで活動写真のおしまいのありふれた舞踏か何かを使ってご勝手にご完成をねがうしだいであります。
――宮澤賢治「ビジテリアン大祭」
宮澤賢治の最高傑作ではないかと思われるこの作品、結末は謎である。近代人たる宮澤賢治は、仏教だぞさあえらいんだぞ、と言っただけでは誰も言うことを聞かないことを知っていたが、如何したらいいのかはよくわからなかったちがいない。宮澤賢治自身も自分が結末にしてしまった「哄笑歓呼拍手」にどう反応していいいのかわからないのではないのか?