
各思扶如電之躰。宿四生之囹。舉似夢之意。入十八之亭。築幻城於五陰之空國。興泡軍於四蛇之假郷。甲蛛蝥網。鎧蟭螟騎。皷𧒢皮而驚陳。旗蚊羽以標旅。杖我見戟。挊寡聞劔。攘如霜臂。戰魍魎原。競利欲談。爭寰中辨。粤傾耳漸聆。撃目佇立。各謂我是。並言彼非。于時自思。溜水微辨。爝火小光。猶既如此。况吾法王之子。盍摧虎豹之鉞。拉蟷蜋之斧。
今日は授業で、書物の方に真実が有り、現実にはない。ネットの真実率は書物にかなわない。よって書物最強。という説を教師として言っておいたのであるが、若干自分でも信じていないところはあるのだ。ネットのフェイク的な所というのは、吾々が「虚実の皮膜」そのものにしか興味がないという真実を語っている部分がある。その皮膜の性格に実体が宿ることを吾々は自覚しつつある。
仮名乞児の内面は、儒教と道教の争う様をみて、かくのごときものである。もはや儒教先生も道教先生も立派に見えてくるくらいであって、これはレトリックではなく、認識のあり方を示している。理屈ではほんとうは儒教も道教もいいところはついているところがあり、いまはやりのどっちもどっちということになりかねない。しかし、本質は存在し、理屈ではないものとしてある。それは、観念(無)としての本質ではなく、「電の体」や「夢の意」であるところが本体としての本質である。その行うところ、仮の世界のそれなのであって、正確な実体として「幻城」であり「泡軍」に過ぎない。
むかしは、正義は暴走するとか平和主義者がよく言ったもんだが、その言い方では不十分で、それっぽいこと、正しそうなこと、背に腹は代えられないっぽいことはすべて暴走すると言うべきであった。
まだ構造論者と機能論者の対立ってうのはまだあり、そこで虚実の問題を扱いきれていない感はあるわけである。
我が国では、――にかぎらないが、結局そのもっともらしいスローガンやなにやらがどのようなことをもたらすのか予想出来ないバカが増えたことが停滞の原因である。それは案外「理想と現実」の二項対立に立脚していたのであり、――その延長線上に、国策に従うと表明するかどうかで処世がきまる様な馬鹿馬鹿しい世界が出現している。確かに、「現実」に即した結果そうなってしまったわけであるが、正確にいえば、理想の中の虚実入り乱れた様を無視してきた結果なのである。戦時中のそれもそれっぽいスローガンが多くて、だからこそ頑張らなくてはそれに協力することは出来ない。だから暴力的な動員になる。そこには、仮名乞児の悪口の中にあった、実体としての泡軍や幻城からわれわれの本質をとらえるのんびりした解釈空間がない。暴力は、誤読によって発動する。