★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

孝行をめぐって

2022-04-11 23:53:32 | 思想


余雖愚陋。斟酌雅訓。鑚仰遺風。毎爲國家。先廻冥福。二親一切。悉讓陰功。捴此惠福。爲忠爲孝。然卿伿識。筋力之應盡。身體之可屈。未見于門之應高。嚴墓之可掃。何其劣哉。


一見親孝行に背いている様に見えてもそうではない働きがある。それをお前は忠孝は筋力をつかう労働やお辞儀みたいなものが孝行だと思っている。つまらないやつだ。

いまでも、汗をかけ、みたいな言い方があるがこれは人に頭を下げてたのみ歩くことを意味している。こうやって、われわれは人を使うこと、人を利用して生きていくことを覚えてしまう。ほんとは、仮名乞児が批判している、小さい孝行は、小さい孝行ではなく、小さい非孝なのである。カントのいう理性の私的使用そのものである。

高く登ろうと思う場合自分の脚を使え。高い所へは、他人によって運ばれてはならず、人の背中や頭に乗るな。


たしかニーチェがこんなことをどこかで言っていた。自分の脚を使うというのが、筋力やお辞儀に頼らないということである。もっとも最近は、筋力やお辞儀に頼らない体で、そのじつ誰かに労働を押しつけ、エビデンスの量で勝負している人間も多い。三年寝太郎は、自身に対する抵抗として永遠に眠り続ける必要を感じるくらいである。

授業の予習でまじまじとよくみてみたら、「終戦の詔勅」の字ってちょっとかわいい字で、漢字と片仮名のバランスが非常になんかかわいい。いわゆる「かわいい天皇」はすでに自身が体していたのであった(理事官の字なんだろうけれども)。「宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ 爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ」。ここに儒教的なものが入り込んでいることは無論だが、自分から自分を体現せよ、といういい方で、「父」的なものへの欲求も満足させているのである。しかもそれが可愛らしかった。

考えてみると、ブッダもキリストも若くして悟り開くというイメージの中になにか可愛らしさを含んでいるとは言えるかも知れない。吾々は、確かに、老いても絶対に悟らない。若さと悟りは憧れの存在として同時に現れる。