青幕張天。不勞房屋。縞幌懸嶽。不營帷帳。夏則緩意。披襟對大王之雄風。冬則縮頸覆袂。守燧帝之猛火。
仮名乞児の修行の描写はながい。空海が三教をならべてやっているのは必ずしも辯証法ではなく、仏教の優位性という主張を細かい描写によってなしとげることであって、ある種、理屈の優位に対する描写の優位の提示である。描写は、目的に完全に奉仕することはない。上の描写なんか、別に修行僧でなくても体験することであって、聞いてる側も休めるし、空海も休んでいるのである。
古典的な文学論だけど、伏線回収とかをすごいと感じるのは探偵ものなどへの快感と似ていて、乱暴な言い方をすると、現実をどれだけうまく無視出来るかという技術でもある。わたくしは、映画やドラマが細かすぎる伏線回収で目の肥えた観衆に挑戦するのを好まない。
そういえば、「1984」ははじめ The Last Man in Europe という題名だったらしい。このディストピア小説は、むかし読んだ記憶だと、あらゆる言語が社会にとって意味を持ってしまう様な怖ろしい社会をえがいていた。言語を大切にという主張がきまじめに実行されると、逆説でさえ、プロバンガンダ(二重言語)になり、せいぜい意味の宙づりであり、その表現のもつ心の発散や自由を失ってしまうのである。