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子曰、君子不以言舉人。不以人廢言。
教養人たる者、相手の言葉だけで登用することもないし、だめな人柄みたいなイメージでその人の言葉を無視したりすることもない。そりゃそうである。これは非常に政治的な言い方で、どちらもしてしまいがちな暗愚に対する批判であろう。ほんとは、どのような言葉の場合は疑いを持つべきか、とか、どのような人柄の場合は気をつけた方がよいとか、具体的なものがあって、それを無視してこのようなもっともらしい箴言をつかっていてもしょうがない。これは下手すると、具体的な施策が、面接とペーパーテストを必ず両方おこなわなければならない、みたいなそれ自体では意味もない抽象的なレベルで止まってしまう。
論語の箴言は、確かに我々のなんか欠点を的確に突いている感じがして、――暗愚に対する言論の武器としてこれはこれで原形からかなり違ったかたちで洗練されてきたんじゃないかと思う。論語集註なんかを勉強すると、その武器である部分をなんか注釈が押さえ込んでいる気さえしてくる。
常に、言論は、一般的に、一般性に開かれてはならない。例えば、わたくしは学生にお勧め本を紹介するのが大嫌いなので、むしろ課題図書として強制する。それも期末レポートみたいなものじゃなく毎週の宿題として。――しかし、これは、わが職場に来る教師の卵の2年生に対するものであって、文学部の自意識エリートに対するものではない。彼らは4年間自由に彷徨してドツボに嵌まる経験をした方がよいから、ひたすら放置すべきだ。しかし、そういう浪人ではなく、仕事のために素振りが必要な人がいるのだ。論語は、たぶんかなりレベルの低い人たちに対する言論であり、革命の口調である。
例えば、選挙に行かないのは、自分の思い通りにならないのがいやなんだろ?と思わせるやつがたくさんいることは確かである。だから、選挙に対する教育は、選挙によって何かが実現できるみたいな建前を教えるだけでなく、自分たちの希望とは本当は何か、頭の悪い君主みたいな人間に仕切られるとはどのようなことか、それに耐えるとはどのような事か、みたいなことを考えさせることでなければならぬ。
坂本龍一氏が闘病の後、「async」 をだした数年前、それを聴いたときに、まあ凄いのでもう最後なのかなあ、と思っていた。しかし、その後、アニメとか校歌の仕事やってたと知った。わたしは自分のセンチメンタリズムを反省した。病気のさなか、自分で思いついたものではない仕事をするのは大変なことだ。最後の「12」は私小説だからちょっと仕事ではないだろうが、――どうみても普通の人はこうはできないわけであって、仕事人とはすごいもんだと思う。
若い頃は、なんか爆発的に進むみたいなものが思考だと思いがちだが、仕事で使える?思考は習慣化されたものだけだ。私見では、合理的であろうとする思考は、その中庸であるようにみえて爆発の一種である。自由は、習慣化され身体化された自らの主観でも客観でもないある動きから生じる。習慣化されないものは、かならず誰かの強制によって崩壊する。