子曰、不知命、無以爲君子也。不知禮、無以立也。不知言、無以知人也。
昔、この箇所を読んだ時、君子(教養人)の備えなければならない条件――命・礼・言を指摘したものかと思っていた。しかし果たしてそうであろうか。これは条件かも知れないが、それで教養人が出来上がるとは限らない必要条件であって、さしあたり、人としてましになるのは、天命を知り、礼を学び、言葉を理解しようとすることによってだけだ、まああとはしらん。みたいな意味ではないかと思うのである。孔子は、学生を引き連れた先生である。先生は、完璧を目指さない。そこそこひどいことにならないように気をつけるべきことだけを言う。あとは学生の生き方次第である。
これがわからずに、与えられたものを絶対条件だと思ってしまう学生、あるいは、逆に必要条件だけにこだわってコスパをはかろうとする者、両方いるが、――いうまでもどちらも壮大に間違えている。自由な生き方を失った狂気がそこにはある。
同じ事だが、職場でも評価のやりかたが狂ってると、――というよりそもそも評価が「できる」みたいな狂気が存在していると、人は点数になるもの以外をさぼることによって評価を上げようとする。評価の狂気にあわせて自分を狂わせることが、生き残る自由を発揮しているように思い込む。当たり前であるが、狂ったやり方に沿っているのだからうまく行く。いま労働現場で起こっていることの一部はそういうことで、自ら労働を減らすことが処世術と化している場合があるのだ。
やったことがないからなんともいえないが、選挙も当選するための必要条件たる技術があると思うのである。その技術に沿って動員されている人間とか、投票する人間もやや技術的な行為に陥っているとはいえないであろうか。たぶん選挙スタッフになっていろいろ活動している方々は、ポリシーの他に勝ったときの「バンザーイ」がものすごく快感なのである。彼らがおこなっている行動は自分で快感を引き出す行為としての活動である側面を捨象出来ない。――当然いうまでもなく、当選が確実視される人間に従う場合でなければそうはならない。また、自分の投票した候補が当選して「正解っ」みたいな意識の人っていると思うのだ。投票による「答え」を出すみたいな感覚である。そういうのは偏差値エリートにも結構いるからね。。。