莊暴見孟子曰、暴見於王、王語暴以好樂、暴未有以對也、曰、好樂何如、孟子曰、王之好樂甚、則齊國其庶幾乎、他日見於王曰、王嘗語莊子以好樂、有語、王變乎色曰、寡人非能好先王之樂也、直好世俗之樂耳、曰、王之好樂甚、則齊其庶幾乎、今之樂猶古之樂也、曰、可得聞與、曰、獨樂樂、與人樂樂、孰樂、曰、不若與人、曰、與少樂樂、與衆樂樂、孰樂、曰、不若與衆
王は孟子に「ひとりで音楽を楽しむのと人と楽しむのとどちらが楽しいですか」と聞かれて「大人数で楽しむのがいい」と言った。このあと、王が太鼓を鳴らして人民が頭痛をおぼえているなら人民と一緒に楽しもうとされていない、逆に音楽を楽しむ王は病気ではないようだと思ったら人民と一緒に楽しんで折られるからだ、と孟子は言う。結局、問題は音楽そのものじゃないと言いたいのであろうが、音楽が有効だとも考えていなければこういうことはいえない。しかし、王が孟子に「音楽が好きなんですか」と聞かれて、「寡人非能好先王之樂也、直好世俗之樂耳」(先王の音楽を好きというわけじゃなくて、ただ世俗の音楽が好きなんだ)と言い訳をするように、音楽を楽しむと言っても、いろんな音楽があることは無視出来ない要素だと思うのである。
むかしも今も、音楽の趣味と統治との関係は難問のように感じられる。ソ連ではその問題が爆発的に展開してしまった。人民のための音楽でなければ、いけなくなったのである。スターリンは、結局、社会主義リアリズムみたいなことを実現したかったのではなく、王の統治を実現したかっただけであるようにみえる。孟子なら、頭を抱えたかも知れない。
孟子や孔子の言っていることは、それを道徳として機能させようとしなければ、薄く当たりすぎている。「深い」考察が20年ぐらい経ってみるとそんなでもなかったことはよくあることだ、――しかしこんなことが実感をもって語られるのならまだいいのだ。ほんとは書かれた当時からうすうす分かっている場合が多いことで、まさに「深さ」のないのを「薄々」感じるところが趣「深い」。結局、孟子や孔子の勇気は、自明の理に留まる勇気を得たことだ。描かれた事象をもっと調べて例外的状況に注目して「深い」印象を売りにして打って出ることも出来たはずだが、それをしなかった。
もっとも、ときどき本人についてのエピソードが、賢人としての自明の理発言が余りに自明の理であるために、くっついてきてしまう。孟母のエピソードなんかがそうである。それをそもそも良妻賢母みたいな思想に収めるのは無理があるのだが、しかしその無理をした結果良妻賢母も辛うじて道徳として時々機能した面がたぶんあるのだ。だから古典を大事にして無理をするのはよいことでもある、常に使おうとする意図とズレるからである。丸山眞男の、文化は働きじゃなくて価値の蓄積だみたいな言い方は、そういうことと関係があるんだとおもった。
――それにしても、音楽が政治に重要だと思われたのはそもそもなぜであろうか。そういえば、うちの庭のかえるは、豊富な食料にありついているせいか、なんとなく顔に締まりがない気がする。やはり自分で食料調達していない動物ってあほう顔になるのであって、人間もたぶんそうなのだ。実際は、音楽はそういうアホに緊張をもたらすものなのではないだろうか。我々は音楽を娯楽だと思っているのだが、そうではなく、戦争や死の緊張をもたらすものではなかろうか。
最近実感されるのは、社交的な人というのは組織では動きが悪かったりすることである。コミュニケーション能力という言い方は、例えば教育と子育てを区別出来なくなるだけでなく、社交と組織の中での行動の違いをもわからなくしてしまった。最近は社交的な幇間が増えて組織で論理を一貫させるのが苦手な人が増えた気がするのであるが、社交というのは、音楽じゃなくて言葉と食料のやりとりである。だから、それが文化の苗床であることは確かでも、緊張感を失っていくものなのである。結局、音楽というのは組織的ななにかであり軍隊なのである。
自分の欠点を直接具体的に言われても何もせず、遠回りに示唆されたのは何もいわれてないと同じと認識し、怒られたら傷つけられたと厭がらせ開始するような現代的人間。普通こんな奴と付き合うはずがないが、あまりに数が増えてくると、対処せざるを得ない。特徴は、非常に彼らが言葉の人であることだ。言葉を解釈することで、事態から逃避もし攻撃にもでる。よく子どものとき暴力を使った経験がないと加減がわからないので危険みたいなことを言う人がいる。しかし、拳や脚を使ったそれは、使い慣れると逆に加減が本当に分からなくなって、もっと使いたくなる場合が多いんじゃないか。行使した経験が浅いと加減が分からなくなるのは言葉の暴力の方ではなかろうか。