★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

王顧左右而言他

2023-04-30 21:02:22 | 思想


孟子謂齊宣王曰、王之臣有託其妻子於其友而之楚遊者、比其反也、則凍餒其妻子則如之何、王曰、棄之、曰士師不能治士、則如之何、王曰、已之、曰、四境之内不治、則如之何、王顧左右而言他。

有名な「顧みて他を言う」の挿話である。妻子を捨てて他国に行った大臣は絶交、司法長官が部下を使えなかったら罷免、で、国が治まってなかったらどうするんですか?と王に詰め寄る孟子である。王は話を左右を振り返って話を逸らした。

思うに、このように話を逸らすことと、右顧左眄みたいなものは、前者がごまかしで後者が諂いであったとしても、おなじような動作であるのがおもしろい。右顧左眄のやからはメンタリティが、自らの責任を果たさずに部下だけは責めるような王と瓜二つなのである。昨日、岡本太郎の「日本女性は世界最良か?」という1952年の文章を読んだら、威張り腐る夫とだだをこねるガキが同一物であるだけではない、それを支えて本心を押し殺している如き女性は、その裏面に過ぎず、相互の悪循環を為していると言っていた。いまでも通用する指摘である。これが男と女の悪循環だけでなく、いろいろなものが代入出来るようになっただけである。ケアや支援みたいな言葉で、岡本のいう女性に当たる存在を作り出している人間たちは、差別やハラスメントが権力の勾配によって出来上がっていると思っている素朴すぎる人々である。まだ、循環している何かを見ている岡本のほうが事態をみている。たぶん、戦争によって否応なくそのことを自覚させられたのである。

それにしても、孟子はこんな喧嘩を売って大丈夫なのだろうか?と思ってしまう我々は、たいがい孟子の訴えをストレートに受け取らずに「顧みて他を言う解釈行為」が癖になっているに過ぎない。

今、王は則ち左右を顧みて他を言ふ。吾、千歳の後に生れ、書を読み茲に至り、直に唾罵せんと欲す。但宣王の骨朽つること已に久し。論ずるとも益なし。吾が徒、事に臨む毎に、且は職分を思ふ時は、過挙なきに庶幾からんか。

――吉田松陰「講孟箚記」


松陰が王に唾をひっかけなかったのは、王がもう死んでいたからに他ならない。