俄坊主になし、姫路にかへれば、門兵衛・内儀も姿をかへてありし。様子聞きて悔やめども、髪は生えずしてをかし。
「狐四天王」のお話、弦楽四重奏のような構成で、姫を殺された狐四天王の復讐は、すべて人間の頭を丸めてしまう。それを「をかし」で閉めてしまう西鶴に迷いなし。これに比べると、近代人は何かひねりを加えておかないと納得しない。
雨ふり坊主フリ坊主
田圃もお池も一パイに
ドッサリ雨をふらせろよ」
太郎はその手紙を丸めて坊主の頭にして、紙の着物を着せて、裏木戸の萩の枝に結びつけておきました。
その晩、太郎の家で親子三人が寝ていると、夜中から稲妻がピカピカ光って雷が鳴り出したと思うと、たちまち天が引っくり返ったと思うくらいの大雨がふり出しました。
「ヤア、僕の雨ふり坊主が本当に雨をふらした」
と太郎は飛び起きました。
「僕はお礼を云って来よう」
と出かけようとすると、お父さんとお母さんが、
「あぶない、あぶない。今出ると雷が鳴っているよ。ゆっくり寝て、明日の朝よくお礼を云いなさい」
と止められましたので、太郎はしかたなしに又寝てしまいました。
あくる朝早く起きて見ると、もうすっかりいいお天気になっていましたが、池も田も水が一パイで皆大喜びをしていると、田を見まわりに行っていたお父さんはニコニコして帰ってこられました。そうして太郎さんの頭を撫でて、
「えらいえらい、御褒美をやるぞ」
とお賞めになりました。
「僕はいりません。雨ふり坊主にお酒をかけてやって下さい」
と云いました。
「よしよし、雨ふり坊主はどこにいるのだ」
とお父さんが云われましたから、太郎は喜んで裏木戸へお父さんをつれて行ってみると、萩の花が雨に濡れて一パイに咲いているばかりで、雨ふり坊主はどこかへ流れて行って見えなくなっていました。
「お酒をかけてやると約束していたのに」
と太郎さんはシクシク泣き出しました。
お父さんは慰めながら云われました。
「おおかた恋の川へ流れて行ったのだろう。雨ふり坊主は自分で雨をふらして、自分で流れて行ったのだから、お前が嘘をついたと思いはしない。お父さんが川へお酒を流してやるから、そうしたらどこかで喜んで飲むだろう。泣くな泣くな。お前には別にごほうびを買ってやる……」
――夢野久作「雨降り坊主」
ここまでひねられるとてるてる坊主のありがたさがどこかに流れてしまう。そもそもこの太郎とお父さんはどのような容姿なのであろうか。せめて太郎は坊主頭であって欲しいものである。二葉亭の頃から、容姿の描写をやめて表情の描写にうつっていったが、これの果てにアニメーションの世界があった。彼らの衣装はいろいろあるが、基本、仮面のような顔に表情が表れるほうが重要である。「耳をすませば」なんか、初めて観たときからあまり好きじゃなかったんだが、やっぱあれは東京を中心とした世界のにおいだと思う。あれが少しずれると大江健三郎の「セブンティーン」になるんだよ。自由は、葛藤を悩みにかえ、気分の推移が悩みを解消させる。しかし人生が決定的に変化する状態に立ち至ると「転向」しないといけなくなってしまう。「セブンティーン」に起こったのはこっちである。存在していないのは人を強要する外部である。東京を中心とした我々の生態の最後の砦は〈父〉だった、この二つの作品には〈父〉はない。キャリア形成があるだけだ。
狐は父よりも強要する力があったということであろう。「狐四天王」は、姫を殺したやつの親族まとめて攻撃したのである。