それに兄さんは、ナポレオンにすっかり参ったんですね。というより、多くの天才が個々の悪にとらわれないで、ためらうことなく踏み越して行った、ということにひきつけられたんですね。兄さんはどうやら、自分も天才だと考えたらしい――つまり、しばらくの間そう確信しておられたんですよ。兄さんはひどく苦しまれた、そして現に今も苦しんでいらっしゃる、というのは、理論を考え出すことはできたが、ちゅうちょなく踏み越えて行くことができない、したがって自分は天才ではない、とそう考えたからです。もうこれなどは自尊心の強い青年にとって、それこそ屈辱ですからね。ことに現代では特別……」
――ドストエフスキー「罪と罰」(米川正夫訳)
現代人の生き方の卑怯さの原因はいろんなものがあるんだろうが、ひとつには、生きるためのウソをたくさんついていることと関係がある。原罪が復讐しているのか何かしらないが、――罪悪感が昂じると罪悪感なしに人間は普通に狂う。いまやそれは煩悶とか名づけられず、病として処理されてしまう。
そもそも「罪と罰」への煩悶とは、罪や罰とは関係がない。私の記憶にあるのは、院生時代である。筑波大学の要塞型の多孔構造とへんな高低差の通路など、あれは住んでる院生にとってはとても閉塞感を生むなにかで、循環しないエッシャーの絵というかなんというか、――あれは病む。わたくしはなんとなく、要塞ではなく監獄にいたような気分であった。