★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

実務家の怨念と浪人的世界

2023-06-04 20:40:53 | 思想


孟子曰:「仕非爲貧也,而有時乎爲貧;娶妻非爲養也,而有時乎爲養。爲貧者,辭尊居卑,辭富居貧。辭尊居卑,辭富居貧,惡乎宜乎?抱關擊柝。孔子嘗爲委吏矣,曰:『會計當而已矣。』嘗爲乘田矣,曰:『牛羊茁壯,長而已矣。』位卑而言高,罪也。立乎人之本朝而道不行,恥也。」

仕官するのは道を行うためであるから、貧乏を解消するためじゃないんだが、だからといって貧乏のために仕官しても別にかまわない。その代わり高い地位には就くな、というのが孟子の主張である。当時も、志の低い役人たちにかぎって上昇志向がものすごくて孟子はほとほと嫌気が差していたに違いない。孔子が倉庫番だった、牧畜係だった、みたいな例を繰り出す孟子は、実際の倉庫番や牧畜係の怨念だけでなく高い地位の役人に対する孟子自身の怨念を自身に感じていたに違いない。だから孔子は低い身分でも頑張っていたと自らを慰めている気がする。

20代の頃は、気取った逆説のなかに真意以外の色合いをみたくて頑張ったところがある。例えば、最近でも、ここ数年、ときどきペルソナについて調べたり考えたりしてきたので、「仮面浪人」という言葉になにやらものすごいものを感じる。まだ私の中には「浪人」的なものへの憧憬がくすぶっているわけだ。が、いまは孟子の怨念みたいなテーマの方がどちらかというと好きである。わたくしは、モノの手触りや心(言語)の物質性に関心するタイプではなく、どこかしら実務家的なセンスがある。むかしから部活ばかりやっていたせいかもしれないが、最近は、儒教を読んでいるからでもあろう。この教えは、実に馬鹿に対して有効であるとともに、その教えを学ぶ者にルサンチマンを温存するところがないであろうか。

たぶん、SNSの発達は、どこかしら、文章の文化の変容、――金言化をもたらしている気がする。我々の風土と怨念のあり方からして、儒教的なものがリニューアルされて復活する可能性は高いと思う。差別やマイノリティに対する感覚を支えるのは道徳の普遍性に対するパッションである。科学的な知見に従えば、すべての命の現象を平等にあつかうところまでしか行かないのだから、かえって問題は、悪を同定するパッションをどこから調達してくるかだ。最近は、不自由はいけないみたいなところにそれを求めるというのは、不自由に対する感度が悪くなっているので難しいのではなかろうか。

例えば、「ここは退屈迎えに来て」を拝読しておもったが、結局作者のパッションは、おそらく青春時代に経験した庵野秀明なんかだろうが、――庵野がもたらしたのは新手の思春期とか青春とかなんだろうと思わざるをえない。それは、人との和解を未来に置いた引き籠もりの劇で、一種の「仮面浪人」の世界だが、自らの自由を放棄することによって、人に接近しようとする企みである。わたくしはそこには、孟子の抱いた怨念の世界もなければ、小林秀雄の骨董の世界もない気がする。


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