★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

少し太り気味の木乃伊

2022-07-30 23:02:42 | 思想


夫れ摂受・折伏と申す法門は水火のごとし火は水をいとう水は火をにくむ、摂受の者は折伏をわらう折伏の者は摂受をかなしむ、無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし、譬へば熱き時に寒水を用い寒き時に火をこのむがごとし、草木は日輪の眷属・寒月に苦をう諸水は月輪の所従・熱時に本性を失う、末法に摂受・折伏あるべし所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり、日本国の当世は悪国か破法の国かと・しるべし。

摂受・折伏は褒めるか貶すかみたいな対立である。仏法を広めるのにもこんな対立があった。日蓮は、どちらが必要かはどういう状況かに拠るんだと言っている。摂受の必要なのは無智な人々と悪人が多い場合で、折伏の必要なのは、邪な知を持ち仏法を謗る輩が多い場合である。考えてみると、いまも同じで、イデオロギーがなくよりどころがない人間に溢れていると考えている人たちが「褒めて伸ばす」とか言っており、実は我々はイデオロギーよりも悪質なアヘン(宗教)を呑んでいるに過ぎないと考える人々は怒っている。アヘンが国民国家やミソジニーの場合もあれば、フェミニズムや戦後レジームの場合もあるだけだ。で、そのあまりに敵が入れ替え可能な融通なかんじがいい加減に見える人々が、つぎつぎに前者に鞍替えしている雰囲気である。しかし、前者は何に向かって褒めるのかわからないのでますます不安をとめることができない。

「熱き時に寒水を用い寒き時に火をこのむ」――こういう言い方は素朴で分かりやすいけれども、我々を救わない。私が、親に捨てられて小説家となった人間に読み書きを習い、吉野源三郎やドストエフスキーあたりから読書を本格的に開始してよかったと思うのは、根本的に苦悩は祝福されているという感覚を持っているからである。この感覚に比べれば人文学とかは何ものでもないという感じがする。近代文学は、現実と相渉るだけではない、相渉る苦悩さえも救う道を見出したと思うのである。坂口安吾が言うように、罰の当たったやつしか文学は出来ないと言ったのは本当である。

もっとも、近代文学が罰の当たった事柄に回帰しようとしすぎて、確かにつまらない怨恨を軽視してしまったのはありうる話である。そういうつまらないものは単に軽蔑すればいい話ではないだろうか、と考えてしまったからである。しかしここまでつまらない怨恨が繁茂するとそうもいっていられない。


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